急がば回れ

 

 あのときマスクで隠していれば。メイクか何かで取り繕っていれば。そんなことばかり思い浮かんでは消えていく。

 鼻歌でも始まりそうな余裕さとは裏腹に、クロトの腕は強固に絡みついて鎖のよう。もがくわたしの肩のほうが悪くなりそうだ。なぜだかすでに疲れ始めてしまったところへ、ケースから鈍色の切っ先を取り出しながらオルガが迫ってくる。かたかたと硬い音が最後への秒数を数えるカウンターじみて。

「とっ捕まったか。ヤキが回ったなアリーシア」

 軽く息が切れているこちらの状況が嘘のように彼は平静だ。ことばだけは。その表情は「手間取らせやがって」と明確に物語っている。

「手間取らせやがって」

 やっぱり。相当手間に感じているところに都合が悪いけれど、わたしだってこのまま引き下がりたくはなかった――勝ち目からは目をそらすこととする。

 今のわたしの力でふたりに太刀打ちできるかどうか、なんて計算はすぐに意味を失うから。リビングの出入口にはいつの間にかシャニが立ちはだかっていた。疑い九割残りは哀れみの視線がわたしに注がれはしても、救いの手が差し伸べられることは万に一つも。

「早いとこやっちゃってよ」
「やだやだ離してクロト、あっ」

 わたしを後ろから抱えたままクロトは易々とソファーに沈み込む。完全に、獲物を逃がさない構えだ。この膝の上でどう暴れようが、きっと今着ているパジャマでは鎧の代わりもなることもなく。木のボタンが可愛いお気に入りを今日ばかりは少し恨んだ。

「大人しくしてなってアリーシア、下手したらオルガが破いちゃうかも」
「しねぇ、お前じゃねぇんだからよ」

 硬い指がひとつずつ、ボタンを外していくから。

「いや、やだったら……オルガ」
「恨むんなら自分の体力のなさを恨むんだな」

 両腕もまとめて抱きすくめられて、ばたつかせる脚はオルガを押し留めるには力が足りなくて。触れられたら、知られたら終わりなのに。そんな焦りを諦念が静かに覆っていくのを止める手立ては、わたしの中のどこを探してもかけらひとつとして。なんて事実を直視するのは悔しすぎる。

「アリーシア……やっぱ熱いな」
「あ、ぁ」

 ぷつん、と軽いボタンの抵抗のあと。

「ほら、ここ」

 クロトがそうっと這わせた指にパジャマを開かれ、胸骨の上を少し冷たい空気に晒され――それ以上は限界だった。

「ひどい、むごい、血も涙もない、あなたたちには良心ってものがないんですかぁ!?」
「あーくそラチが開かねぇ、シャニ!」

 手にしていたものをカーペットに放り出し、がなりながらオルガはわたしの両肩を掴んだ。これでは前後から完全に固定されたも同然――把握すると同時に血の気が引きそうな現状に割り込むのは、まっすぐやってくるシャニだった。

「シアさぁ、往生際悪いんだよ」

 つまり自分は三人目だと宣言する酷薄な刺客はおもむろに屈んで、大きな手でわたしの額に手をやると一気に前髪をかき上げる。

「いい加減認めて楽になれって」

 目を細め――笑みを思わせる視線で。

「あいた」

 こつんと額をぶつけてきた。やけに冷たい。

 わたしの荒い呼吸だけが響く静寂、数秒があって。

 ***

「ん、三十七度六分」
「せ、セーフ?」
「アウトだよバカ」

 アウトだった。叫んだせいで余計にくらくら熱くなる頭は、シャニの頭突きのせいもあるのかも。視線が恨みがましくなってしまうのは仕方ないことだとわかってほしい。当の彼は意に介さずのんびり外出の支度を整えているけど。ところで、あのふわふわマフラーはわたしのもののような気がする。うさぎの刺繍がついているし。

「決定ー。アリーシアはもう病人だから」
「観念しなガキ。クロト、ベッドにぶち込んどけよ」
「あー」

 ここでシャニがでたらめな数字を挙げていたとしてもこうなっていたのだろう。ふと窓ガラスに映る自分を見ると、目つきがやたらとぼんやり不穏になっている。それにみんなが気づくのも時間の問題だったというだけの話。まるで布団のかたまりを持ち上げるかのようにわたしは軽々抱き上げられ、そんなことができてしまう力持ちへダメ元で情に訴えてみる。

 今日を楽しみにしていたのはわたしだって同じなのだから。

「ね、クロト」
「ダメ」

 ダメだった。ちょっと熱っぽいくらいなのに、なんて不満は口にしたところでもちろん説得の足しになるはずはない。今回正しいのは明らかにみんなの方。

「だって約束が、スパゲッティ屋さんが……」
「いいこと教えてやろうか。ナポリタンはいつ食ってもナポリタンなんだよ」

 クロトが歩くのにつられて脚がぷらぷら揺れるわたしへ、オルガがどこか誇らしげに体温計を持たせてくる。これはさっき自分で放り投げていたもの。完全に「出かけるから持っといてくれ」の合図だ。本当にわたしに留守番させるつもりの。

「僕ならミートスパ大盛り一択だけどねー。ところでスパゲッティの店でナポリタン頼むってアリなの?」
「別にいいだろメニューにあるんだから」
「いいなぁ、いいなぁ……」

 羨ましさのあまりクロトの首元にぎゅっと抱きついても、二階に連れ戻される現実は変わらない。「テイクアウトするし」のひとことでお腹は空いても、四人で出かけられなかった現実は――言わずもがな。

「遠足前に熱出すやつに似てるね」

 からからと笑うクロトの背後で「オルガ何食うの、明太子?」「きのこバターってどんなだ?」なんて話し合うなんともおいしそうで楽しそうな声が遠ざかっていく。

 今回は諦めろとばかりにぽんぽんと背中を叩く手が、ゆっくり眠気を誘うかのよう。クロトの、こんなにしっかり支えてくれる腕の中ならなおさらだ。次に目が覚めるときには、ごちそうをよりおいしく食べられるくらい元気になっていたい。

 そのためにはぐっすり眠るべきだけど、ここだってとても心地いい――考えることが詮ないものばかりに、とろとろになっていく。

 

ランダム単語ガチャ No.5063「急がば回れ」