蜂蜜

 

 奪われたのは動きと呼吸だった。

 いつの間にやら寝返りを打っていたのか、視界にはベッドの天板ではなく壁が広がっている。唯一自由な視線を下げ、体を縛りつけるようにお腹に巻きついているものを見下ろした。その正体にうっすら気づいているけど認めたくない。

 暗がりにほの白く浮かぶそれが人間の腕だなんて。

 *** 

「ない」
「僕はずっと前に一回だけあったかな」
「おとといあった。すぐ収まったけどな」

 これはわたしの質問への答え。金縛りにあったことはある? そんな突拍子もないことを聞かれた全員、いぶかしげにして。

「なに、アリーシアは最近そうなの?」
「うーん、多分……」
「多分ってなんだよ」
「だって半分寝てるんだもの。体が動かなかったなって、それだけ覚えてて」
「金縛りってそんなもんだろ」

 シャニはさらりと返すとあくびして、またソファーに寝転がってしまった。座るタイミングを逃したオルガは舌打ちして立ち読みに戻る。クロトはゲームオーバーになったのかゲーム機をいったん放り出し。

「眠りが浅いのかもよ? 僕みたいに寝る前にストレッチしてみるといいんじゃないの」
「えらい、毎晩してるんだ」
「徹ゲーしちゃうと次の日首がやばいんだよねー」

 苦い顔でぐっと頭を右に傾ける動きは確かにぎこちない。それとなく真似すると、ひとのことは言えないくらい硬さと痛みを感じた。これが職業病か……と少し悲しくなりつつ頷く。

「やってみるよ。ありがと」

 ふと思ってみればリラックスを忘れていた気もする。最近は戦闘がないとはいえ、それは逆にいつ始まってもおかしくないという状況だ。今少しでも体力を回復しておかないと大切な時に響いてくる。

 そのとき雲が晴れて真昼の光が窓から差し、微かにくらりとした。瞬間、誰かがわたしをまっすぐ見つめているような視線を感じて目をこらしたけれど、おのおのいつも通りに時間をつぶしている。クロトもリベンジに戻っていた。きっと気のせいだろうと、わたしも端末を開いて作業の続きを始めることにする。三人のそばは静かだ――ゲームはにぎやかだけど。

「うわハチ強すぎ」

 クロトが声を上げる。これは自機が撃墜される一ミスの効果音。

 ***

 金縛りでも夢でもないと認めざるを得なかった。クロトのアドバイス通りに簡単な柔軟をしてからの寝つきはよかったはずだった。後ろに何かが横たわっていることに気づいて目を覚まさなければ。

 もしかしたら同室を使っている乗員のいたずらかもしれない。彼女はわたしを見て、数少ない女性兵士が来たと喜んでくれた明るい子。けれどすぐに、彼女はここにいないと思い出す。今は待機がてら乗機の調整に出ているころだ。だからこの部屋にはわたししかいない。いないはずだったのに。

「……っ」

 前回と同じように、それはわたしの後ろからふたつの腕を回している。ぴったりと背中にくっついている形だ。もしかしたら同じように交代中の、かつ女性スペースのパスを破った男性兵士かもしれない。思いっきり振りほどいて正体を暴いて艦長に突き出してやる。とにかく最低限、一撃入れて逃げ出さなくてはいけない。

 ――できない。呼吸は浅く乱れて、体はすくんでいる。後ろの人間はそれを察しているのかいないのか、そろりと手を下ろし始めた。輪郭をたどるように手のひらを這わせて太ももへ、膝へ。微かな衣擦れの音が、これは現実だと思い知らせてくる。

 誰かが戻ってきてくれたら。そんな希望は、自分で閉じたカーテンが否定した。善良な人間なら、眠っているわたしを起こさないようにカーテンに触れることなくスルーしていくだろう。

 大声を上げようとした喉はなんの振動もしない。

 みぞおちに押し当てられていたもう片方の手が、動いて。

 ***

「前線は初なんだろ」

 ため息まじりに、オルガは重そうな鞄を肩にかけ直した。わたしが数えた分だけで六冊、ということはそれ以上のペーパーバックがその中に収まっている。

「単にビビってんじゃねーか。しかもアリーシアだしな」
「それどういう意味?」
「そのまんまの意味だっておいふざけんな!」

 久々の外出許可ということもあり、お互い町での買い物がかさばってきた。わたしは同僚に頼まれたおつかいと、自分の消耗品をいくつか。とりあえずは自分の荷物をオルガの腕に引っかけてやりつつ、自覚のなかった症状を思ってみる。乱れに乱れた睡眠が心持ちにも影響してくるというのは筋が通っていた。現在進行形で、強いわけでもない太陽の光が目に痛いのだから艦内にこもりっきりなのも関係しているかもしれない。

「オルガは甲板に出ることもあるんだよね?」
「甲板というか、まぁ外でぼーっとすることはあるな。あんなせまっ苦しいとこ何時間もいられるか」

 言い捨てるオルガの晴れやかな表情は、待機中の心境の裏返しに思えた。こうして町の景色を見ながら歩くのが案外気に入っているみたい。つられて笑いながら荷物を引き取ろうとすると「別にいい」と避けられてしまった。空いた両手はひとまずこめかみをマッサージ。

「今度わたしもついてこっかな」
「好きにしろよ」

 そうして次のお店へ向かいはじめたタイミングで、ふと路地の片隅に落ちているものに気づいた。港町特有の潮の香りにはそぐわない、はちみつを思わせる黄色の丸いキャンディー。子どもが食べようとして落としてしまったのだろう。

 少しだけ砂にまみれた小粒には、ちらほらアリが群がりつつある。

「置いてくぞ」

 数歩先で振り返ったオルガにあわてて返事をしてそちらへ駆け足。それが最優先だったから、こんなにささいな発見はそう時間のかからないうちに忘れてしまう気がした。

 ***

 オルガの言ったとおり弱気になっていたのかもしれない。どんと構えていればいいのだ。普通に眠る。違和感を感じたら真っ先に部屋から逃げる。その後のことはそのとき考える。ことはいたってシンプルだ。それにここには艦長も同僚たちもオルガたちも乗艦しているのだから。

 そんな頼もしさも相まって、今日はいくらか落ち着いてベッドに入ることができた。前回のことも踏まえてあえてカーテンは全開で。

 三人に話を持ち出した三日前から毎日こんなことが続いている。もしかしたらわたしが気づけなかっただけで、ずっと前から正体不明の相手は侵入していたのかもしれないけれど。なんて冗談でも笑えない仮説を頭から追いやりつつ、目を閉じた。体中のもやもやを追い出すように大きく深呼吸。

 ――低い音。

 数度目のそれに、自分のものではないリズムが混じっているのに気づいたのは少し遅れてからだった。

「……え……?」

 思わず声が出てしまい、反射的に口を閉ざす。ありえない。わたしは今ここに入ったばかりで、当然ベッドは無人だった。これはいつからここにいた? それともわたしはいつの間にか眠っていて、これは数十分後の夢うつつか。急激に高まっていく混乱のなか、すぐそばに何者かがいるということだけが確かだった。

 とにもかくにも不意を突いて逃げようと、投げ出していた両手を強引に動かそうとする。休眠状態の体はなかなか言うことをきかないけれど、急いで。それなのに。

 唐突に口元に押し当てられるものが想定のすべてをぶち壊した。

「ん……っ?」

 骨張って硬い、手のひら。おそらくは男のひとのもの。

 真上から抑え込まれるような力は、それが横たわったわたしを見下ろすように覆いかぶさっていることを証明する。もがく両脚は、それの両膝に挟まれてまったくの無意味になって。

「……」

 ――耳元を、別の呼吸がかすめていった。

 口をふさがれたまま、やめろとも助けてとも叫べないまま、それを聞いた。知らないはずの音。あってはいけないもの。倒さなくてはいけない相手。

 完全に歯が立たない。そう気づいてしまいそうな焦りは思考を鈍らせていく。

 次の行動を考え出せないわたしを置いて、お腹に触れたもうひとつの手が、気が遠くなるほどの時間をかけて体を上ってくる。指先は肋骨を、手のひらは腹筋を。

「……んー……っ」

 知らない何かに触られている。正体も目的もわからない相手に好きにされている。怖いのに、悔しいのに、これまでと同じように何の抵抗もできなかった。それとも、この感情は現実ではないということなのか。

 そうして滞っていく心を、最後に残った力で突き動かす。骨や肉の凹凸を確かめるようなそれが胸の下部にまで達したそのとき、ぎゅっと閉じていた目をようやく開いた。こんなに近くにまで引きつけたのだから、せめて相手の横顔くらいは見られるはずだ。

 多少は驚いたのか彼は蛮行を止める。その顔は。

 ***

「だめじゃん」

 ずらしたアイマスクからのぞく視線は呆れ果てていた。うとうととしていたところに泣きつかれた話題がわたしの目下の困りごとなのだから、仕方なくはある。

「顔覚えてねーのかよ」
「暗かったし、あわててたし」
「下手したら死んでたろ、夢じゃなかったらだけど」
「夢じゃない……はず」

 言い切れないのは、自分でも自信をなくしかけているからだ。いくらなんでもこんなおおごとを引き起こしている人物の見た目をすっかり忘れるなんてありえない。それならいっそ、顔のない誰かが襲撃してきたという夢だったということにしたほうが現実的に思えて。

「今度からシャニたちのとこで寝ようかな」
「あ?」
「冗談です……」

 ずるずると引きずるようにソファーから起きて、シャニはアイマスクをテーブルに放り投げる。寝ぼけまなこは数度瞬きをして、わたしが握っていた飲料水のボトルを見つけると取り上げて残りを飲み干してしまう。こんな暴挙も、ふたりしかいない待機室では咎める目はない。

「シアここ毎日ちゃんと寝てないんだな」
「やっぱりそう見える?」
「ここ」

 個人的には少し過剰なメイクで隠したクマを心配したけれど、シャニが無造作に指さしたのは唇だった。無意識に噛んでいたのか、目を覚ました時から確かに痛みがある。

「前より荒れてる」
「やっぱり……ちゃんとしないとね」
「どうすんの」

 首を傾げるシャニへ、ポケットから取り出したリップクリームを掲げて見せた。もうそろそろなくなってしまうから、買い出しで新しいものを数本確保しておいたお気に入り。

「なんか書いてある」
「はちみつ成分入りなんだって」
「ふーん」

 よそを向いて簡単にリップを塗り終えるわたしを、もしくは唇をシャニはじっと見ているようだった。その目が少し見開かれるのに気づいて、どうしたのかとたずねるとあたりをきょろきょろとし始めている。

「……いい匂いする。甘いやつ」
「これかも」

 ポケットにしまったリップクリームを指さすと、シャニは生返事をしてそれをじっと見つめた。

 その手の中のボトルが丁寧に握りつぶされる。

「それ、俺も使いたい」
「シャニも痛いときある? じゃあ、部屋のやつ今度持ってくるね」
「ん」

 眠たそうな表情で小さく頷くシャニの唇をそれとなく観察してみた。

 どんな様子なのか、なぜだか印象がぼやけて。

「やめて……」

 あの冗談を本当にしてしまいたい。

 自分のうわごとで目を覚ましたときにはすでに始まっていた。わたしではない誰かがそこにいて、わたしに触れている。飛び起きようとする脚も腕も掴んで、ベッドに押さえつけて。

 視界はまるで役に立たなかった。暗闇に慣れていないのか影すら把握できない。ただ、何かがいる気配が質量になって、仰向けのわたしの周囲に固まっていることがかろうじてわかるだけ。

 周囲。

「いや、やめ……ぁ……」

 唇をこじ開けて口内に入っていくものがスイッチになって、気づいた。

 舌をくすぐる指。胸にうずめられる指。手首をやすやすと捕らえる指。内ももを伝っていく指。腰を掴む指。膝をなぞる指。

 これはひとりではない。

「……!」

 いつからだろう。いつから相手が増えていたのか。それとも最初からわたしはこんなふうにされていたのだろうか。こんなこと、勝てるわけがない。

 一度折られかけたら、そこからの脱力は当然起こることだった。強ばっていた全身が、死んでいくかのようにベッドに沈んで。

 何も考えられなくなっていく。

 そのとき、わたしの上を這いまわるものの一部がふと静まった。それがどこなのか、どういうつもりなのか。疑問だけが浮かんで。

「……ん……っ、ぅ……」

 ぬるり、と、温かくて濡れたものが口にねじ込まれた。それが人間の舌だとわかっても、キスをされているのだとわかっても――わたしをむさぼるものすべてといっしょにして振り払いたくても。

「……や……っ」

 体の中から響く濡れた音が甘く滲んで、それだけ。

 自分のぜんぶに触れられ続けて意識はすり減って。やがて薄いシャツを裾からめくり上げた指が中に入り込んでいくのをぼんやりと感じた。

「助けて!」

 これ以上は耐えられなかった。もうすぐ就寝前といったころの彼らの部屋に飛び込むと、向けられるのはもちろん訝しげな目。シャニはすでに眠たげにして瞼を閉じかけていたけれど。

「は? アリーシア? なにそのカッコ」
「うるせぇよ今何時だと思ってんだ!」
「ご、ごめんなさい、でも聞いてほしいの、事情が変わっ」

 怒って立ち上がるオルガに言い募ろうとした喉が凍るのがわかった。

 はっきりと甘い香りがしたから。

 それははちみつのもの。シャニにあげようとした分は自分のデスクに置いたままだ。

 そもそも、あそこからどうやってここまで来られたのか。

「……どうして……」

 うつむけた視線を、上げる。

 わたしを見つめていたのは。

 

ランダム単語ガチャ No.636「蜂蜜」