アラウディ

 波の音や楽隊の演奏に混じって、そう遠くない港から水夫の大声が微かに飛んでくる。招待客はそれを気にも留めず、グラスを片手に社交パーティーの側面を存分に満喫していた。この席のそばを行き交う婦人たちのドレスを楽しそうに眺める彼女はワインをひと口…

「君は僕に嘘も隠しごともしない」 そのことばが信頼のみで構成されているかと問えば、答えは是だとわかる。日の光の下では綺麗に透き通る目が夜の密室では氷のように冴えて涼しげな色を帯びた。心を洗う冬の朝そのものの瞳が、それなのに確かな熱をもってわ…

きみだけ

「確実に組織の情報を守る方法を知っているかい」 机を指先でひとつ叩いてやると、向かいの椅子に拘束された男はますます顔を青くした。「文書は論外。信号や暗号は規則性を見破られたら終わり」 こつ、こつ、と、硬い音が部屋に響く。それらひとつひとつが…

ひそひそ話

 某地域での偵察、作戦行動、何もかもが読まれている。その事実は内通者の存在を明らかにしていた。けれど機関が動じることはない。淡々とその人物を拘束することを各員に命じた。まずは相手方の連絡員との密会現場を押さえること。 それなのに。「何であな…

「僕のもの」

 二つ隣の席で、身なりの整った男性が静かに葉巻を取り出す。目が合った僕たちへ微笑み、軽く手を上げて挨拶する様は紳士と形容すべきだろう。残り少ない客たちも一様に話し声を抑え、店内は落ち着いた空気に満ちている。「まずは目をつけた令嬢へ穏やかに語…

はんぶんこ

 心のどこかで、何があっても彼女は味方だと確信していたのかもしれない。それが間違いだと思い知らされたのは、彼女に手渡されたカップの中身を半分飲んだ数分後だった。 青ざめた彼女が慌てて駆け寄ってくる。メモ書きと格闘して作られたホットレモネード…

おはよう

 消灯時間を過ぎた今、基本的に廊下を歩くのは巡回の兵士のみに許されている。もちろん相応の地位も権限も持たない彼女がその例外に当てはまるはずもなく、こうして部屋の前に立ち尽くしているのは単なる規律違反に過ぎなかった。 そして何より、完全な命令…

一目惚れ

「見慣れない色だ」 声に出したのが間違いだった。部屋の姿見から振り返った彼女の表情が立ちどころに華やぐ。「よくぞ聞いてくれました」「聞いてない」「これは試着です、久しぶりの休暇の装いですよ」「聞いてない」 切り捨てつつも視線は追った。軍靴は…

 ポーチから口紅を取り出した手を捕まえたことがある。簡単にねじ伏せられる華奢なそれは、しかし危惧した動きをなぞることはなかった。呆気にとられた彼女は、すぐに意味を察すると頷いて笑うのみで。「キスオブデス?」「少しだけ疑ったよ」 解放されると…

誓い

 その日のブリーフィングも滞りなく終わるはずだった。わたしの時計をアラウディのものに照らす恒例行事がなければ。「少し遅れてるようだ。合わせたのはいつ」「ついさっきです。天文台の報時球を見たんですけど……」 手袋に包まれた指が伸べられ、わたし…

もっと

要求は止まらなかった。そんなものもうない、といくら否定しても頑なに認めようとしない。「もっと言ってください」「もう諦めたら」「無欲な人間なんてこの世にいないんですよ」「その意見には賛成するけれど、それはそれ」めちゃくちゃを言い始める始末だ。…