おはよう

 消灯時間を過ぎた今、基本的に廊下を歩くのは巡回の兵士のみに許されている。もちろん相応の地位も権限も持たない彼女がその例外に当てはまるはずもなく、こうして部屋の前に立ち尽くしているのは単なる規律違反に過ぎなかった。

 そして何より、完全な命令違反で。

「僕は、決して引き返してくるなと言ったはずだけど」

 反論はない。開いた唇が閉じるのは、それが甘えたわがままだと考えているからだろう。「眠れない」、日中にぽつりとこぼした彼女が間違っても僕を頼ることなどないよう言いつけたつもりだった。その結果はこの有様。

「君は見るなのタブーを破ったんだ」

 冷えた手を取って自室の奥に引きずり込む。あれからずっと彼女のことばかり考えていた男のもとに、何も知らずに戻って来たのが悪い。

 ***

 一週間前、彼女の目の前で人間が死んだ。

 大多数の職員にとってさほど衝撃的な事件ではなかった。偽装を見破られた侵入者がその場で処理された、それだけのこと。彼が苦し紛れに狙ったのが、偶然居合わせた経験の浅い諜報員だったという事実も、重要ではない。

 僕たちの役割は情報収集とその裏づけであって、積極的な命のやり取りではない。任務の上では己の存在を悟られないことが理想で、死体の出る戦闘などは最も避けるべきものだ。彼女にもそう教育している。

「誰も傷つけなくていいんですね」

 少々的外れな彼女の発言に、安堵が多々含まれていたのを覚えている。

 だからこんな日が来ることは薄々予想がついていた。彼女はできた軍人になどなれない。それなのに僕はこんな場所へ彼女を縛りつけている。

「あなたのそばなら安心です」

 ――そう言って、先ほど彼女があっさりと眠り込んだのは、僕の所業に比べたら可愛いものだろう。何の面白味もない報告書を端から読み聞かせてやる必要もなく、上官のソファーを占領して。

 仕方なく寝台に運んでやってから、一晩中その寝顔を眺めた。頬を青く染めた月明かりはいつの間にか薄れ、そろそろ朝日が差す。どんな恐ろしい目にあわせてやろうか、もといどう迅速に部屋に返すかを真剣に検討していたのがほんの数分前のように感じた。

 ――君の目の前にいるのは、君を大切に思っている上官で、君を愛している恋人で、君を独占したいと思い上がっている男だ。そんな人間の部屋へ真夜中にひとり訪れるのが、どんな意味を持っているか教えてあげようか。

 そう脅かそうとする企みは「アラウディ」と名を呼ぶ声ひとつが粉微塵に潰した。どんな欲望よりも、彼女が泣きそうに弱っているのを抱きしめて庇いたい願いが勝る。邪な気持ちなど、この可愛いひとの前ではその程度のものだった。

 彼女が深く眠る様子が、ざわめいていた胸中を落ち着かせる。うなされるでもなく心底気持ちよさそうな表情は、普段の印象から輪をかけてあどけなく映った。音のないこの時間を、彼女の平穏を守れたなら寝ずの番をした甲斐もある。
 
 不本意に起こしてしまわないように、軽く髪を撫でた。彼女が目を覚ましたときどう声をかけるか、その唇から最初に聞きたいのはどんなことばか。それはすでに決まっているけれど。