男の子

 

 オルガがみんなの中で少しだけ早起きなのは、このヘアワックスのためだった。小さなケースから適量を掬って手のひらに伸ばして前髪へ――の一連の動きは手慣れていて、まじまじ観察する間もなく終わってしまう。ひとりで肩を落とすわたしを、オルガが当惑の目で見下ろすのが鏡越しにもすぐわかった。ぴったり隣にいたせいで。

「なに見てんだよ」
「んーん、さっとセットできるのいいなって」

 わたしだったらこうはいかない、髪を念入りに梳かすだけで朝の貴重な時間はどんどん過ぎていく。かといって、あと五分あと五分とまどろみを引き延ばす気持ちよさは同じくらい大切なもの。

「わたしもオルガみたいにおしゃれにしたいよ」
「お、アリーシアには良さがわかるか?」

 見上げた先の得意げな笑顔は、これが自分にいちばん似合うスタイルだという自信に満ちあふれている。綺麗な髪が朝日できらめくのを知ってはいたけど、寮の中でだってそれは変わらなかった。

「なら、これ使ってみるか」
「いいの? どうやればいいかなぁ」

 ひとつ、思案の沈黙があって。

「そりゃ、お前の髪だったらこう……」

 ワックスを纏わせた両手が突然髪に差し込まれ、ひゃあ、と自分で自分が信じられないほど情けない悲鳴が出てしまう。そのうえくしゃくしゃにかき回されるからたまらない。

 いっしょに頭の中身まで回転しそうな激しさ――が襲い来るのかとほんの少し身構えたけど、それははずれて。オルガの手つきは子犬をなでるときのそれに似ていた。柔らかいものを扱うときの、柔らかい触れ方。

「こうやってれば雰囲気くらいは変わるだろ」

 少し屈んで、視線の高さはやや均されて。わたしの耳にかかった髪を指でそっと引き取っていくのを見つめる真摯な目が、その瞬きが近くなる。いつしかじっと見つめていたのを気づいているのかいないのか、オルガはふと目を細めた。ながめるのは自分の指先あたり。

「……細い髪だな。下手したらちぎれそうだ」
「ちぎらないでー」
「動くな動くなマジでちぎれる!」

 一喝しつつも毛先をそっと握り込んで念入りに。
 そうして促された鏡には起き抜けとは大違い、風を含んだようにゆるりと遊ぶヘアスタイルがあった。載いた花冠に似た華やかさがひと息に胸を高鳴らせて、真後ろをぱっと振り返る。その拍子に頬のあたりでくるんと毛先が跳ね。

「ありがとう! かわいい?」
「あー、まぁ似合ってんぞ。さすが俺だな」

 ふいとよそを向きながら仕上げとばかりにもうひとなで。そこで、わたしでは一気にカバーできない範囲や力をオルガは簡単にできることを思い知った。

 大きな手。

「オルガ、向いてるよ」
「スタイリストに? ……そうか」

 思わず見つめてしまうほどゆっくり目を伏せて、オルガは笑う。

 そうしてほんとはスプレーも、と考え込む彼の横合いからはだんだんと足音が近づいてくる。そういえば今は忙しい朝。

「なー、鏡空いたー?」
「見て見て、オルガが美容師さんしてくれたよ」
「おーすげー、アリーシアふわふわだ!」

 眠たがるシャニといっしょにやってきたクロトは目を輝かせ――けれどすぐに「でもさ」とオルガへじとり目を濁す。

「その美容師オールバックしかできないはずじゃん」
「俺も雑オールバックにされた。客選ぶなよ」
「そうなの?」
「まるで記憶にねぇな」
「廃業だ廃業!」
「そもそも開業してねぇんだよ!」

 とんでもない勢いでピッチングされるヘアワックスのケースを避けて逃げるふたりをオルガが追うと、鏡の前にはわたしだけ。

 自分と目が合うと、何やらオルガとはあまりこうならなかったことにふと気づく。具体的には、彼がわたしの髪に触れたあたりから。

 

ランダム単語ガチャ No.704「男の子」