スペシャリスト

 

 メープルシロップとハチミツ。カットしたバター。すでに用意された濡れぶきん。まだ出番ではないらしいバニラアイスは冷凍庫の中。混ぜ終えられたホットケーキミックスは微かに甘い香りがする。

 カウンターには、温かい完成品が鎮座する円くて白い皿がひとつ。

 ほのかな湯気を何とはなしに目で追う数秒を真ん中から引き裂くのは背中を突く指だった。

「そこ突っ立ってたら邪魔なんだけど。なに、これ食べたいの?」
「別に」

 もう朝食は終えている。が、牛乳を飲み終えても疑問は消えずに残り続けた。背後では、いまだにクロトがフライパンの火加減に忙しい。

 フル活用されているキッチンが奇妙なのは中心にいる男のせいだ。

「なんか、ホットケーキだけ高いな。熟練度」
「そうかぁ? ま、簡単だし、アレンジもたくさんあるし、後片づけは押しつけられるし」

 混ぜて焼いて終わりの自分やオルガとは大違いだ。クロトもその手合いだと思っていたが実際はこのとおりやけに凝りつつある。正確にいえば休日の朝のこの時間、ホットケーキだけ。

 厚くて、皿と同じくらい大きな円はきれいな焼き色が均一に広がっている。喜んで写真に残したがるだろう――と思い浮かべた当の彼女は、たった今軽やかな足音とともにリビングにやってくるところだった。

 顔を洗ってなお眠たげだった目はにわかに輝いて。

「おはよー。あ、やっぱり」

 俺たちにひらと手を振って、しかし視線はすぐにホットケーキに注がれた。スリッパがすっ飛んでいきそうにその足取りは跳ねスキップと何ら変わりなく。

「いい匂いだね。ね、クロト」
「はいはいわかったわかった」

 一度火を止めたクロトは左手でナイフを取り出すと一息にホットケーキを両断した。そのまま六等分し、何もつけていないまっさらなひと切れをフォークで突き刺す。

「ほらアリーシア」
「はぁい」

 カウンター越しに身を乗り出して、シアは大きく口を開けて。

 そこへ押し込むようにホットケーキが放り込まれていった。

「んー、おいしい! やっぱりクロトのはふわふわ」

 オーバーサイズなひと口をゆっくりと咀嚼する間もそれを終えてからも、シアはバニラが溶けるようにとろけて、頬を染めた笑顔のまま。

 ――クロトの腕が上がるわけだ。

「さっさと用意してよね」

 その彼に空になったフォークを目の前で振られ、シアは急いで食器を並べ始める。つまり彼女は試食兼準備兼後片づけ担当というわけだろう。いつの間にそんな協定を結んでいたのやら。

「現金なやつ」

 思わず、といったようにクロトは笑みをこぼし、改めて二枚目に取りかかりはじめた。その流れるように迷いのない手つきは、きっとあれを真正面から見つめるため。

「いただきまーす。あ、シャニもひと口?」

 大好物を前にしたシアの。

「……食べ終わってるからいい。テレビでも見る」
「なんだ、いつもみたく二度寝じゃないのかよ」
「今日はなんとなく」

 まず香り始めたのはメーブル。その甘さを舌と喉で感じる錯覚を持て余しながらテレビの前で電源を入れると、戦隊ものらしい番組がすでに次回予告に差しかかっていた。そんなものに見入るはずもなく、気づけば横目でシア――と話すクロトをながめている。ソファーに寝そべるのも二の次に。

 なにかと面倒がる人間だって、あんなにも楽しそうに料理ができるようになるらしい。よほどのスイッチがあれば。

 

ランダム単語ガチャ No.3953「スペシャリスト」