恐怖症

 

 シャニが指差す先ではスラックスの裾が土で汚れていた。いら立ちまぎれに脱ぎ捨てたスニーカーも同じく。手入れが面倒だと思うと、追撃に蹴りの数発でも入れておけばよかったと若干の後悔が頭をもたげた。そうせずに帰ってきたのは単純に暑かったから、同時に空腹が限界に来ていたから。

「今度は何やらかしたんだよ」
「正当防衛だよ正当防衛! シャバ僧どもが絡んできたからグラウンドで投げ飛ばしただけ」
「シャバ僧って」

 キッチンに引き返しながら心当たりの男子生徒たちを思い出しているらしいシャニの脳裏には、ついでにアリーシアも現れているかもしれなかった。ああいう手合いにはち合わせたらその時点で詰む存在の筆頭。ここで暮らす男どもとは対極にいる普通の、女の子――体力面に限って言うなら。

「死語だろ」
「オルガのボギャブラリーに引っ張られたんだっての」

 多分。

「おい聞こえてんぞガキども!」

 奥からの怒号はかちゃかちゃと卵をかき混ぜる音に重なっていた。なんという迫力のなさ。これ以上追及されないように笑いをこらえながらそちらを覗くと、気づいて「次言ったらはっ倒すぞ」と凄むオルガのそばでアリーシアも夕食の準備に加わっていた。テーブルの上に皿をいくつか広げている。

「あ、クロトおかえり。乱闘?」
「してねーよ! ただいま!」
「シア、これはあの棚だっけ」
「あ、うん。週末に開けちゃおう」

 アリーシアが調達してきたらしい洗剤数箱をシャニは軽々と片腕で持って出ていく。それを眺め、卵が焼ける心地いい響きに隠れそうに感嘆のため息をついたのはその彼女だった。

「力持ちだよね。わたしは両手で持ったけど結構重かったよ」
「ま、あれくらいは余裕でしょ。僕もオルガも……アリーシアは当分無理っぽいけど」
「頼りにしてるよー」
「ハイハイ」

 いたずらっぽく笑うのを背に、手を洗おうと一度キッチンを離れてシャニを追うようにした。砂を払った手のひらには擦った赤みがうっすらと残ったまま。さすがに何人も相手にしたらこうもなる。

 さっきは、半笑いでやってきた彼らに返事もせず掴みかかった。歳下だからとあからさまに舐めた態度が気に食わなかったからだ。最後には半泣きかつ土下座で命乞いをされたから手打ちにしてやったが。

 気に食わないといえば。舐めているという点ではアリーシアだってそうだ。弱いくせにこちらに対してはなにかと慢心している節がある。先週のことを思い起こすと、おつかいを頼んだあげく「おつりでお菓子買ってもいいよ」は慢心を通り越してガキ扱いが過ぎるのではないか。

 力に訴えたらすぐにでもわからせてやれる。完全に優位なのはわかりきっているから、具体的な方法はいくらでも思い浮かんだ。

 思い浮かんで、その後。

 アリーシアはついさっきみたいに笑うだろうか。

 暑さはとうに吹き飛び、その疑問への答えはひとつきり。

「ないな」

 結論は洗面台の前に差しかかった頃こぼれた。そこには片づけを終えたシャニもいて。

「は? なんの話だよ」
「泣かれたら立ち直れないって話」

 

ランダム単語ガチャ No.4768「恐怖症」