いつの間にか引き結んでいた拳をやっとのことでこじ開けた。操縦桿を握る、壁を殴る、普段から酷使している手はアリーシアのそれのような柔らかさからはかけ離れている。
「オルガの声」
諸々の情報を削ぎ落としたことばは、しかし感情だけは伝わった。空いていた向かいのベッドへ腰かけると頼りない骨組みがぎしりと鳴る。それを手繰ってか彼女はこちらへ首を巡らせた。両目を閉じたまま。
「……今度はなんだ、そのありさまは」
「夢を見てた。でも、あんまりよくない夢だったみたい」
発熱で文字通り倒れる寸前のところを、リフレッシュルームに偶然居合わせた同僚に助けられた。というところまでは耳にしている。現にアリーシアはこうして満足に起き上がれない。あんな奴らに渡されるあんな薬、律儀に飲み続けているからだ――などという推測はさておき、うたた寝の浅い眠りに降りてくる夢の内容があいまいで荒唐無稽なことは確かだった。身に覚えがありすぎるから。
自分を害する夢などに割く記憶容量は無駄のひとこと。
ならば、その逆は?
「……アリーシアのいい夢ってなんだよ」
まったく想像がつかなかった。この世に幸せな夢があることなど。ひとかけらのビジョンも浮かぶことなく深く眠れるのが理想で、そこから外れたらやってくるのは痛みと冷たさを伴う暗く重苦しい時間だけ。目を閉じている自分を自覚しつつも体は動かず、鋭い切っ先に突き刺されるのを待つしかない日が何度あったことか。それはいつも頭の片隅に巣食っている、ぼんやりと形をとった自分の未来そのものなのだろう。いつか誰かに、もしかしたら自分自身にそうされる確信。
叶うことなら眠らずにいる方が楽なのに、彼女はそうではないらしい。若干のいら立ちを込めて見つめる頬は、おそらくは淡い温もりのためにほころんだ。
「家にいる夢かなぁ」
「そうかよ」
世の中でいう「普通」らしき答えに呆れ果てるのに気づいているのかどうか、むしろ言い募る声には彼女を蝕むものとは違う熱がこもった。アリーシアが自分の中だけに持っている光る宝石をひとつひとつ広げてみせるように。
「お母さんが作ってくれたごちそうがいっぱいで、雪の日だから外は寒いけど部屋は暖かくて、お父さんが両手いっぱいにプレゼントを持ってきてくれて」
「盛りだくさんだな」
「うん、たくさん。オルガたちもいたから」
――聞き間違いかと疑いをかけながら、枕元にほど近い床に直接座り込んだ。いや、確かにそう言ったのを否定するために脅しをかけたかったという心づもりの方が大きい。相手は変わらず瞼を閉じているから効果の程はともかくとして。
「いるわけねぇだろ」
これに関してはこちらが正論だと思った。実際には世界中のどこにも起こらなかったことの話でムキになるおかしな自分を自覚しつつ。
「アリーシアの家だ。そんなところに俺たちが」
「いるもの。お父さんにプレゼントもらってた」
「……もらえねぇよ」
強引に話を切り上げようと立ってみるが、行くあてもなかったので床に落ち着き直した。滑稽な一部始終を見る者は今はいない。
ありえないことだった。その男の子どもはアリーシアだけだ。赤の他人がその輪に入ることなど、その他人に何かを差し出す手があることなど。ここでようやく、いら立ちの理由がまぶしさだとわかった。
彼女がいた部屋の明かりは暴力的なまでに目を焼くに違いない。
「もらえてたもの。オルガにはかっこいいシューズだったよ」
「よく覚えてんな」
「忘れたくないって思ったから」
いつしかアリーシアは目を開いていた。潤んだ視線や、言い張って譲らない頑なな口調のせいか幼く映る。そしてそれはいつか世界中のどこかにあったものだ。今は彼女から永遠に失われた者たちが隣にいて、見守っていた子ども。
俺の中にはそんなものはもともとなかった。この話はこれで終わる。
だから、この問いかけも不毛で。
「……俺にもいつかそんな夢が来ると思うか?」
「思う」
間髪入れない断言。一切の揺るぎのない。
それこそありえないことだった。夢から覚めたら痛み以外は消えてなくなるものだと身をもって学んでいる。
「ねぇ、オルガはプレゼントには何が欲しい?」
けれど今日はこの病人の、ほんのいっとき顔を覗かせた子どもの言うことに乗りたい気分だった。床の冷たさも、自身の体内のがらんどうも忘れられると考えて。
「何もねぇよ」
口をついて出てきそうになる最適解を飲み込んで。
