コップの中の嵐

 

 シャニにベッドを占領されたアリーシアは、ふてぶてしくあお向けで寝そべる男のすぐそばで申し訳程度に腰かけていた。向かいに無人の二段ベッドがあるにもかかわらず。

「どこで寝ても変わらないんじゃないの」

 入口で身を乗り出すと、センサーに引っかかったままの体はドアを開けっぱなしにする。偶然通りがかった兵士が怪訝そうな声を上げて結局は黙殺するのも背中でわかった。

 そして正面には、空の箱がふたつ置かれた空のベッドがある。

 アリーシアはかつての隣人たちにも席を譲られずにいた。

「何の冗談?」

 ここに至るまでまともに返事すら寄越さず、硬い表情を崩さない彼女へ抱いたのはいら立ち。部屋の主のうちのひとりなのだから、あんなもの(それと、あんなやつ)どかして堂々と陣取っていればいいのに。

 ――最後のひとりといった方が適切だった。記憶が正しければ。

 壁を殴りつけるのをやめたのは、それがシャニを目覚めさせるだけだと予想して。足音が荒くなることの方は止められずにそちらへ詰め寄れば、アリーシアの目元が赤くなっていることに気づいた。さっきから反論のひとこともないのは喉をすり減らしていたからなのかもしれない。

「無駄でしょ、そういうのって」

 喪に服すという、彼女の故郷のならわしをふと思い出した。親しい者の死の後には祝いごとや祭りにしばらく参加しないとか、なんとか。理由は当然忘れた。その話を聞いたときにも今と同じ感想をもったものだ。

 人間が死んだら、後に残るのは単なる物だけなのに。

「寝床使ったってそいつらは怒んないよ。だってもういないんだからさ」
「……そんなの、わかってる」
「理屈だけ」

 ようやく返ったことばは、アリーシア自身の表情が否定した。ただでさえ狭いスペースに無理に体をねじ込み腰を下ろすと自然とそれを見下ろす距離は縮まる。いつものように言い返す気力がないのを表すようにその目は潤んでいて、もし雨粒がひとつ落ちたならくっきりと波紋が広がりそうなほど。

 それを見つめて、いちばんに浮かんだのは確信だった。

「変なの。僕にわかることがアリーシアにはわかんないの?」

 自分たち三人のうち誰が死んでも、同じように何もないところを見つめる。

 アリーシアは目の前に僕を繰り返す。

 それが馬鹿馬鹿しくて嬉しい。これだって多分、変なことだけれど。だってそのとき僕はどこにもいない。

「毎回泣いてたらそのうち干からびるよ」

 何度も擦られた目元はその数だけ濡れたのだろう。頬とは別の意味で熱を持っていそうな、柔らかいところ。

 そこへキスをしたのは何の意味もないこと。ただ、唇とは違う赤だと思っただけで。

「クロト」

 その名前は困惑で歪んで響く。今日はじめて、アリーシアが表情を崩したのを見た。驚き、呆然、やっぱり困惑。少し怒ってもいるかも。

 ニュートラルよりよほどいい。

「なんで……」
「別に。なんでもいいじゃん」
「……誰かに見られたら恥ずかしいよ」

 本当はもっといろいろあることばのなかから選ばれた平凡なそれがおかしい。こんな状況で部屋のロックのことはちゃんと覚えていられるなんて。

 僕が何をする気でいるかは気づけないくせに。

「鍵が閉まっててもアリーシアはおんなじこと言うでしょ」
「でもクロト、やっぱりこんなとこで……」
「だからここには僕たちしかいないんだって」

 今度は、今度こそは唇へ。ある種の信心深さすら感じる頑なさはひたすら神経を逆撫でする。ないもののために拒絶されるこちらの身にもなってほしいものだ。

「や……」
「騒ぐと気づかれるかもよ」

 傍らで寝そべる男、開くかもしれないドア。ダメ押しにそれらをちらつかせたら、ないに等しかった抵抗は完全に力を失った。唇どうしを触れさせたままのことばはふたりの間に微かな波を伝わせて、飲み込まれでもしたかのように消え失せる。

 僕を押しのけようとする手は、いつしか肩にすがりついてきていた。

「……ん……っ」

 僕のもので満たされていく彼女を空想すると、胸がすくような、逆に暗く塞がれるような――どちらにせよ歓喜には違いない痛みが背骨を突き刺した。

 もうすぐアリーシアの中には僕しかいなくなる。

「そうそう。静かにしてたら誰にもバレないよ」

 ここにいたやつらにも。それは余計なひとことだと思ったからカットしておく。黙って、黙るしかないまま僕にいいようにされる彼女をずっとながめたいたいから。

 どうして?

 もう僕へものを伝える手段をほとんど失ったアリーシアがそう訴えかけるのは揺れる視線の中。どうしてもなにも、こうしたかったからこうしているだけだ。動機になりきらないただの衝動はひたすらキスを彼女に押しつける。泣き疲れてもともと弱っていた体は、もっと弱々しく僕の腕に収まりつつあって。

 これから何をするにしてもおあつらえ向きの状況。それを見つめる双眸がある。

 目を覚ました傍らで横目に。

 アリーシアはまだ気づけない。注視が増えたことも、ここに向かってやってくるつもりのもうひとりがいることも。

 

ランダム単語ガチャ No.9966「コップの中の嵐」