「動かない方がいいんじゃないの?」
口調は軽く、状況とのミスマッチが寒気さえ感じさせた。声の主は、兵士の首へ突きつけたナイフの刃を寝かせてそうっと滑らせてみせる。もちろん、彼にはその光景が直接は見えない。わたしとオルガの反応で、これが脅しではないことを察するのみ。
「あーあ、あんたが無駄にでかいから狙いがブレちゃった。ほら、もうべたついてきて……」
みるみる蒼白になる彼の皮膚へぬるりと塗り広げられる液体は半透明で、妙な粘りがあるのか滴らず留まる。出血の前兆なのかとよせばいいのに見つめてしまう――だから気づいた。
銀色の刃。
彫って削って、かたどられた目と背びれ。
「え」
場違いに声を上げそうになるのを踏みとどまると、不意に解放された兵士の背がとんとこちら側に押される。
へたり込んだ彼の向こうに隠れていたクロトの目が、意地悪に笑むのが手に取るように分かった。
「……早く医務室に行ってください」
なるべく深刻な表情を装って膝をつき、訴えかける。ちらりと横を見上げると、オルガが愉快そうに唇の端を吊り上げていたから肘でその脚をつついておいた。
「止血が間に合えば大丈夫ですから、ね」
「こいつは俺たちでなんとか捕まえるからよ」
「あ、あぁ……!」
哨戒の装備をがちゃがちゃと忙しく鳴らしながら、彼はわたしたちの脇をすり抜け転がるようにこの階の端を目指し駆けていく。その途中で気づくだろうか、はたまた医務官にぽかんとされてようやくだろうか。切創なんてどこにもなくて、首にべたつくものがバターとシロップの混合物だということは。
***
「クロト、なんで?」
寸劇がうまくいってよかった、もし見抜かれていたらどうなっていたか。何がなんだか安堵も危惧も掴めないまま、得意げな彼の胸にぶつかるようにして抱きついた。真っ先に返ってきたのは当然「うわ危な」だったけど。
「今くっつくなよ! 刃物! あるから!」
「だってこんなの持って、もし反撃されてケガしたらどうしようって」
「そのときはそのときだろ」
「そんなことないもの」
「わかったからいったん離れてって」
それもそのはずクロトが手にしていたのは、みんなで行ったあのお店のイルカだった。ここまでそばに来るとほのかに甘い香りがする。つまり食事の後のものが当日のまま存在しているわけで、なおさらハテナが増えていく。
「なんでクロトが? 持ってきちゃったの?」
「パクったのは僕じゃなくてシャニ! ポケットに突っ込んで堂々とさ……ほらアリーシア、もう平気だってば」
わたしの首根っこを掴んで簡単に引っぺがす手は、先の大男を御していたものと同じ。情けなく緩みかけていたわたしの目尻をごしごし拭うのも。ちょっと痛いくらいに。
「シャニか。そりゃそうだろうけどよ」
クロトから受け取ったナイフを彼のバックのポケットにねじ込んで、オルガはすぐそばの窓を開ける。ことばでは納得しつつも寄せられる眉は懐疑的。
「要るか? こんなもん」
「どっからどー見てもイルカだけど?」
「あー過去イチくだらねーこと聞いた、責任とってお前が全部運べよそれ」
高い位置にある窓枠に手をかけて一気に出ていってしまうオルガを追おうとすると、わたしの後ろから頭上を飛び越していくものがあった。着地らしき音は鈍い。
「てめぇこんなもん投げてんじゃねぇよ!」
少し遠くから聞こえる怒声からしてオルガがちゃんとキャッチしたらしい。振り向けば、手ぶらになって快適そうなクロトが両腕を曲げて伸ばしてストレッチしている。
「ここ抜ける間くらい持ってろよって話でしょ。ね」
「ね。オルガよろしくねー」
「ガキども……」
恨みも遠い。
クロトが部屋から持ってきた荷物は自分のショルダーバッグ。その中に残りふたりの持ちものも突っ込んできたという。中身が三人分になって丸く膨らんではいるものの、宿舎を移動する用に持っていたわたしの鞄とほとんど同じサイズ。クロトなら持ったままでも平気には見える――ほんのりそう考えていたわたしの体が不意に浮いた。両サイドから腰をがっちりと捕まえられて。
それどころか持ち上げられた。
「ひゃ」
勢いよく窓枠に腰かける形になると、ちょうどクロトと向き合う形にもなった。いかにも、してやったりな。
「ほら早く出てった出てった」
「わたしまで運ばなくても」
クロトはこれがやりたかったらしい。わたしが助走をつけてここを抜けるより早くて確実だ、という事実をなんとか棚に上げてでもいつかやり返したい案件ができた。そのためには彼並の筋力をつけるところからがスタートだけど。
とりあえず今は、ばたばたと焼却炉へ集まっていく兵士たちの目を盗むのが最優先。
そう結論づけるのにかかる時間が数秒となかったのはなぜだろう。
***
フェンスの外は防風林になっている。そのただ中でシャニはわたしたちを待っていた。木の根元に座り込んでうとうとしているのはいっそ貫禄すらある。この状況を作り出したきっかけそのものなのに。
決定打は、わたしだ。
「ん、全員来た。早いじゃん」
「どっかのバカがド派手にやらかしたせいでな」
伸びをする腕に手を貸して立ち上がらせると「あんなふうになるなんて知らねーし」と意外なひとことが返ってくる。残りの花火を処分しただけだという主張に、向けられるのは疑いの目ふたり分。
「花火に火つけたら燃えるでしょ、そりゃ。で、打ち上げ花火でしょ? もう確定的に明らかじゃんか」
「じゃあ燃えるゴミだろ。焼却炉で合ってる」
「ん? そうなるのか? アリーシアどうなんだ」
「爆発物は何ゴミになるんだろ……?」
「ゴミ箱側もまさか爆発物が入ってくる想定はしてなくない?」
日が傾きかけ、空にだんだんと午後が混じり始める中を歩きながら交わされるのは他愛もない話。防風林をとっくに抜けて、町はずれをさらに通り越し、いつしか景色は打ち捨てられた木箱や看板の間を走る線路沿いになっていく。潮風で金属も傷みが加速しているのか、視界はすでに錆の色で満ちて。
その両脇には、人の手が加わりきらない伸び放題の草原が広がっていた。不規則なそよ風に揺られるたびにさらさらと心地いい音を立てては静まり返り、波音のよう。ずっと向こうに走る高速道路を覆ってしまいそうだ。そこに飛び込んでくるのはシャニの声。長い腕を伸ばして真っ直ぐに前方を指差す。
「これ、方角的にはオーブに行くことになるんだよな。確か」
「どうして知ってるの?」
「暇すぎて雑誌読んでたから」
その先、遥か遠くの山の裾で、緑の中で一点ぽっかりと黒い口を開けたトンネルが小さくもはっきりと存在を主張している。あと数分こうして進んでいれば中やあちら側の様子もわかるだろうか。全員が先のことを考えているのか、トンネルを目指す道行きは誰からともなく会話がなくなっていく。
――けれど、背後に残してきたことの方が圧倒的に比重が大きいはすだった。
宿舎の騒ぎを後方に置き去りにするのと相反して、わたしたちへと近づく予感がある。コンパスの差で、彼らはわたしの少し先を歩いているから表情は見えない。なのに、あの場所を出てきたときの狂乱めいたものはとうに消え失せていると察しがついた。
クロトが持ってきた荷物に入っている彼らの薬は当然ながら限りがある。調達できる場所のあてはなく、きっとこの先見つかることもない。わたしは単純明快に、脱走犯だ。保証も身元も放り出した、無防備な人間の集まり。
ぽつぽつと降り出した通り雨をしのぐ傘だって、今は。
見上げれば、青とオレンジが混在するあいまいな空に薄く雲がかかっていた。何色ともいえないぼんやりとした層の向こうに、真っ暗な宇宙は横たわっている。ずっと。その事実から目をそらして前を向いても。
だからこそ抗いたかった。ただそれだけの理由でわたしはここにいる。
みんなは?
聞きたくて、声にならなかった。喉がどうしてか震えて。役に立たないことばのかわりに、指で目の前を揺れる軍服の裾をつまむとその歩みはつんのめってわずかに乱れる。
「……行くんでしょ、アリーシア」
呼ばれて視線を戻すと、引っ張られたクロトがわたしのそばに立ち止まった。小さく掠れた、少し先で遅れて振り向く彼らにはきっと聞こえていない音が降りてくる。
頷くことしかできない。
ただひたすら、ここに留まりたかったし、引きとめたかった。みんなはわたしといっしょに来てくれて、そのせいで。
全部わかっていて、ここにいてくれる。
「アリーシア」
いちばん先を進んでいたオルガが声を張り上げる。
「何考えてんのか知らねえが多分ハズレだ」
――頷くことしかできない。
今できることは歩くこと。
背後からほかの誰かがやってくる気配がなるべく後になるのを祈ることだ。
「また泣いてんの、シア」
少し離れたところから引き返してきたシャニは、唐突に袖口をわたしの目元に押し当てた。その前髪から一滴、雨粒が伝って降りてくる寸前で視界はふさがれる。
「あ、真似すんなよシャニ」
「わけのわからねー話してんな」
泣いてない、と反射的に返そうとしたのを飲み込んだ。じきにそうなる気がして。
