ふっくらとした輪郭の円形の端から、まっすぐに。ときには蛇行したりひび割れた線を入れながら小麦色の上を泳いだのはイルカ。
昨日、ホットケーキの皿に添えられたナイフの刃先にはイルカの丸い目が彫られていた。なめらかな刃は体、意匠の曲線は背びれを模して、落ち着いた店内に可愛らしいギャップを咲かせるアイテムだったと思う。それが彼らの手元に収まっていたのも。
そんな話を、やっぱり寝転がっているシャニは首を傾げながら聞いていた。
「ナイフの模様なんて見ねーよ。そんなふうだっけ」
自分のベッドの上でのろのろと体をひねって、ジーンズのポケットを探る間にも思い出すことはなかったよう。昨日汚してしまったらしい部分は、ちゃんと洗って元通りにできたというのは本人の弁。
「また店に行けばわかるな」
「うん。今朝の召集がなければ……」
言ったそばから、わたしの個人端末が小さく通知音を鳴らす。いかにもテンプレートな文章、その中からわたしたちを示す管理番号がないことを二、三度読み返して確認し肩の力を抜いた。ここにやってきてからのルーティーンだ。毎朝、午後の便で宇宙の艦に上がる人員がこうして知らされる。
宿舎に滞在する兵士たちは絶えず入れ替わっていた。ある程度の人数がまとまって宇宙に向かうたびに、新しく召集された者たちがやってきて。いつわたしたちの番がやってくるかと内心落ち着かない。予定は繰り上がりも繰り下がりもするものだから。
そんなことはさておいて、とばかりに後ろで体を起こす気配があった。シャニたち三人の端末はそもそも支給されているのかどうか。
***
「定休日」
丁寧な手書きがそう示すことばをたどった後にこぼれてしまうため息は、シャニのものと重なる。昨日訪れたお店は今日、運悪く閉まっていた。シャッターにぽつりと貼られた紙が、ときおり風に吹かれてかさかさと鳴る。ひと通りの少なさも相まって、寂しさをかき立てる光景だった。
「まぁ、いいか。シアが言うならそうだったんだろ」
「イルカ見たかったな」
「昼飯食いたかったの間違いじゃねーの」
「それもある……」
シャニは「やっぱり」と鼻で笑うようにしてあっさりシャッターに背を向けた。当ては外れ、そうすると軽い空腹が妙に気になってくる。
わたしたちはこのまま大通り沿いを行くけれど、「まだ眠い」と残ったクロトやオルガは昼食をどうするんだろう。宿舎の食堂はいつも混んでいて嫌だと言っていた。それはシャニも同じで、だから今日の外出にもついてきてくれている。
「あーあ、ナポリタンってやつにするつもりだったのに」
「わたしはエビドリア……」
「知らねー、それメニューにあったっけ。うまいの?」
「おいしいよ。あつあつで、チーズがとろとろで、エビがぷりぷりで」
「ふーん。じゃあ、それっぽい店探そ」
シャニは初めての景色、それも影になった路地裏にもためらいなく踏み込む――そんなふうに見えたのは、迷子になったときの経験の差かもしれなかった。知っている道に戻ろうと悪戦苦闘するうちに空がだんだん暗くなる焦りや、背の高い建物に邪魔されて周りが塞がっている圧迫感。シャニはどちらにも強そうだ。うっかり歩き出すのが遅れたわたしよりは。
「待って、シャニ」
石灰の白い壁の隙間をするすると泳ぐようにシャニの歩みはスムーズだった。暗がりでも、まるで目当ての場所がどこにあるかすでに把握しているかのよう。右へ曲がって数歩行ったかと思えば唐突に左へ方向転換。それを追った先にはもう彼の姿はなくて、石畳を叩く足音をたぐって正解の曲がり角を探り当てる。いくらなんでもおかしかった。シャニがこの町に来るのは初めて。気の向くままにルートを選んでいるというより、これは。
「どうして」
わたしをこんなところに誘い込んだの?
口にする前の、仮説の形にした問いかけは正しかった。
「誰にも見られないだろ。ここなら」
次の角を曲がった瞬間、ほぼ真上から落ちてきた答え。民家の壁を背にそちらを見上げたときにはもう、白いシャツから伸びる長い両腕がわたしを閉じ込めていた。きっと何をしてもびくともしない、ごつごつとした頑なさの。
「シア」
手のひらが硬い壁に突き立てられた鈍い音が、遅れて耳に届く。
三白眼ぎみの、平静でも鋭くなりがちな視線がしばし注いだ。わたしの動向を注視するでもなく、ただ見つめるだけ。突然のことでつい硬直していた体を意識して脱力し、シャニに正面から向き直ると靴底が薄く積もる砂を踏みしめてじゃり、と鳴った。黙り込んだわたしたちの間ではいちばん新しい音。
声ではなく。
「……どうして?」
ここ数日ちりちりと胸の表面を炙っていた違和感が、とうとう見逃せない焦げつきになる。これから先薄くはなっても決してなくならない、ずっと残る黒。
「ここに来てからみんな、少し変。シャニも」
細められる目が、次いでゆったりと瞬く。
「わたしのこと引っ張ったり潰そうとしたりするもの」
「シアが宇宙なんかに連れてかれるからだろ。ムカつく」
数拍おいて返ってきたのは静かな――ささやかれて雪のように静かに降りてくる事実だった。
「MSくらいデカいのに撃たれると人間って全部消える。蒸発だっけ、そうやって」
それはシャニたちが何度も目にしてきて、確固としたものになった方程式。そんな、動かしがたい当然さを語るにしてはシャニの声はくぐもって微かだった。わたしにだけ届くような、空気に晒したら消えてなくなるものを手渡す繊細さで。
「地球ならまだマシだろ、そうじゃない死に方のほうが多いから」
重力の上では、わたしが戦闘に巻き込まれてどんな形になろうがその場に留まることができる、確率が上がる。少なくともシャニの認識では、それは「いいこと」寄りに分類されるという。
そうかも、と頭の片隅で鈍い肯定が聞こえた気がした。
確かにわたしに触れてくれるなら。
「だったら、ここにお前のこと置き去りにすればいいと思った。それだけ」
「……もし、わたしがここで……」
それなのに、変なのはわたしも同じだった。今しがたの淡い憧れを持ってしても彼らみたいに言い切ることができない。誰もが無関係ではいられないたったひとことを。
死を。
「……迷子になってずっと出られなくなったら、後でシャニが迎えに来てくれるんだよね。そうしたら、お墓を作ってくれる?」
「知らねーよ、墓の作り方なんて」
「目印になればなんでもいいの、来てくれるなら。お花をくれるのでも……」
シャニは、それには答えない。表情の失せたまま。
「作らない」
果たせない約束だと思っているかのように。
「知りたくもないし」
白い壁に囲まれた中、その断言は黒々と鮮やかに刻まれる。それをひと区切りにしたかのように、一歩下がったシャニはふっと息をついた。空っぽになった肺に、細く海の気配が織られた空気を吸い込んで。
わたしのそばから腕は離れていく。
「……行こ」
「どこに……?」
「ここじゃないとこ」
瞬きのうちに、シャニはいつもの眠たげな顔に戻っていた。これまでのことが白昼夢だったのだと惑わせるつもりなら、かなりうまい。
「静かでいいけど、なんか嫌になってきた。暗くて狭い」
「えぇ……」
ここを選んだ張本人のくせに。とことんいつもの、シャニのペースだ。
そのまま歩き始めるのも唐突で、だらりと下げられた手をとっさに捕まえていた。少し体温の低い、指が長くて骨ばった感覚が手のひらに伝うのと同時にシャニがこちらを振り返る。わたしと、わたしたちの手を交互に見下ろして、どうやら方角くらいはわかっているらしい進行方向へ目をそらして。
ゆっくりと握り返した。
開けた場所に出ると、そこは大通りの端だった。小さな女の子たちがはしゃいでドアをくぐった建物は、ショーウィンドウに木の列車が並ぶおもちゃ屋さん。大きな窓の向こうを指差して、花だ、とシャニはつぶやく。
