つまんだ名刺をひらひらとさせるのにも飽きたようで、シャニは寝転がりながらそれをバッグのポケットに戻した。よそ見をしたせいで角がぐにゃりと曲がる。
「少し向こうの町か。この会社があるとこ」
「魚料理がおいしいんだって」
これは朝に読んだ雑誌の受け売り。最近人気の観光名所は灯台だとか。
「ま、行くことないだろ」
わたしは一度も訪ねたことのないところ。もちろん、彼らも。
***
この町に滞在し始めて数日、クロトはひとりであちこちを歩いて回っていたという。そうして見つけたのがこのお店だった。ある日の真昼にわたしを連れてきた得意げな表情の後ろでは、開け放たれたドアが静かに来客を待っている。
「いいでしょ? 落ち着けそうだし、なんかいいにおいするし」
大通りの半ば、小さなテナントビルに挟まれたさらに小さな建物。レースのカーテンで覆われた窓ガラスに、日焼けしたメニュー二枚がテープで貼りつけられている。ふわりとただようコーヒーの香りにほっと息をつくと、隣ではため息がこぼれた。
「で」
つい今しがたの発言から一転思いっきり眉を寄せるクロトの。
「なんでこいつらもいんだよ?」
「暇だし」
「腹減ったし」
「僕とアリーシアの約束だっただろ!」
オルガとシャニは聞きもしないで足早に店内に入っていく。正午の数分前といったところだから確かにお腹がすく頃合いだ。このお店は、ずっと昔に寄港したタイミングで一度だけ来たことがあるから微かに覚えている。そのときは女性兵士四人で大きなサンドイッチを食べて、淹れたてのコーヒーを飲んで、とてもおいしかったことも。彼女たちが確かにここにいたことも。
変わらない外装と、突っ立っている自分を比べかけて止める。きりがなくて、少しだけ痛みを伴うことだから。
「クロト、今日はいっしょに行こうよ」
それに、おいしいものを楽しみに来た日でもある。そんなことを考えつつ、ふくれる彼の両頬を指で包んだ。触れているだけでほんのり気持ちよくなるくらい柔らかい気がするそこを、わずかに指先を埋めるように控えめにつまんでみる。
「……だめ?」
***
ひと月前に、ここで働いていた夫婦が独立して故郷でコーヒーショップをオープンした。おしゃれなカフェも併設していて人気なのだ――と、店主は誇らしげに話してくれた。今やその彼の手元では泡立て器が軽快に躍る音がかちゃかちゃと跳ね、三人はそれそっちのけでまだ争っている。
「結局シアには弱いんだ。雑魚」
「腕力じゃてめーに圧勝だろ僕は」
「否定しねえのか」
ずっとこの調子。聞いているこちらは楽しいけれど。その間わたしの隣で脚を組もうとしたオルガが、スペースの狭さに気づいて舌打ちするのは二度目。癖になっているのかも。
「もっと縮めよアリーシア」
「えぇ……」
そんなことがあって数分後。
店主のおじいさんがテーブルへ丁寧に並べてくれたモーニングを前に、壁の写真や窓の向こうをながめながら言い合っていた三人はふと黙り込んだ。
軽く目を見張って。
「……なんか」
クロトは呆然と。
「光ってる?」
「写真と全然違う」
シャニが指差したのは机の脇に寄せられたメニュー。けれど、その視線は変わらずコーヒーの水面や傍らの角砂糖に釘づけだった。
底が見えないほど濃いコーヒーが四つのカップに均等に注がれている。苦くて、どこか酸味のある香りに混ざるのはホットケーキの甘味だった。香ばしさをそのまま表面の色にした大きな四枚がこれもまた大きな丸い皿に並べられ、さらさらの雪のような粉砂糖やとろりと溶けて広がるバターに彩られている。そんな皿を見下ろすように隣で直立している大きな三角は、ほのかな湯気を纏うふわふわの卵焼きを柔らかなパンがそうっと挟んだエッグサンド。気をつけて触れないとすぐに中のメインディッシュがこぼれてしまいそうで、だからこそ食感を想うだけで気持ちまでふわふわになっていく。
「うん……とってもおいしそう」
こうして目の前に届けられた料理たちはクロトの言うようにきらきらとしていた。
さらにつけ加えるなら、のろのろと食器やカップを手に取る彼らの目も。
「研究所で見てたのが粘土細工みてえだ。こんなに……」
オルガはそれきり、シャニとクロトはそれぞれ「熱い」「甘い」を最後にいっさいのことばをなくした。慎重にエッグサンドを掬い上げる指が、ホットケーキの真ん中に差し込まれるナイフが、熱いコーヒーを少しだけ含む唇がゆっくりと――それでいて止まることはなく。
真摯に。
それに、さすが男の子たくさん食べる。半ば吞まれるようにその過程を見ていたわたしも、ひと口で食べられそうな大きさにホットケーキを切り分けた。添えられたメープルシロップをちょっとだけかけて、ふんわりと抵抗を返す表面にフォークを刺して、ひと息に。
舌の上に広がったのは甘い熱。
「おいしい」
思わず声が出てしまう。それを彼らが聞き逃すはずもなく、誰かが小さく笑う声がした。同意の色をした音で。
お腹がいっぱいになるように満たされるのは、こういうときでもある。
「おいしいよね。わたし、このお店のホットケーキ大好き」
もちろん、両親が作ってくれたものも、自分で作ってみたものも。いつかは同僚たちとおしゃべりしながら。たくさんの記憶の並びに、今日の光景が加わったことがどれほど温かいことか。
「また、みんなで食べたいね」
答える声はなかった。
彼らからわたしに向けられるのは瞬き。いつもよりも目を細めて、ゆったりとした。
***
「うわ」
先に店を出るクロトの後ろを行ったシャニが小さく声を上げた。真昼の日差しが彼の足元に短く影を落とす。
「ポケットべたべた」
「お前なに入れたらそうなるんだよ……中身は? は?」
シャニのジーンズのポケットをクロトが覗き込んだあたりで、会計を終えた店長がマッチ箱をくれた。手のひらに収まる、深紅の背景に白字で店名が書かれたデザインがレトロでおしゃれ。それがもの珍しかったのか、後ろで展示のコーヒーミルを見つめていたオルガがこちらを振り返る気配がする。
「マッチか? 初めて見た」
「最近はタバコ吸う人も減ったもんね」
わたしのいちばんの用途といえばお香に火をつけること。家に置いてきて久しいムスクやバニラを懐かしく思っていると、おじいさんは身を乗り出して木のカウンターにひじをついた。目じりの皺が深くなり、もともとの柔和な笑顔がひときわ優しくわたしたちを見回す。
「仲がいいね。きょうだいかい?」
問われたその瞬間に思い浮かんだのは、同じものを、同じように好きになったあのテーブル。
どう答えるかより、どう答えたいかが先に来て、そうと気づいたのは頷いた後だった。
「はい」
――今度は、気配があったし確信もあった。オルガがわたしを見下ろす視線。
「大好きなんです」
ずっといっしょにいたいくらい。そのひとことは、やってきたふた組めの来客の足音と混ざって店の奥に行ってしまう。
