多分、うさぎ。
肌寒い玄関で出くわしたのは、淡いピンクの布地に浮かぶその白い顔だった。ぽつりと小さく丸い刺繍の目は揺れ、シャニがマフラーを緩める合図になる。思わず指差したのは驚きよりも確認のため。
「お前そんな趣味してたっけ? いやしてないでしょ」
「俺ゆめかわ系だから。知らねーのかよ」
しゃあしゃあと返される答えが出まかせなのはわかりきっている。そんなボギャブラリーを誰から得たのかも。出で立ちから明らかに浮いているうさぎをつまんで外出を邪魔していると、シャニにこれを渡した本人が階段から降りてくる。今日は彼女も買い出し担当だ。
「で、なんでユメカワになったわけ?」
「疑似餌」
「は?」
日常生活で使うものではない単語を掴みあぐね、それがシャニの靴先に落ちる前に拾い上げたのはアリーシアだった。鞄を肩にかけ直しながら小走りに。呆れ気味に。
「シャニ、やっぱりそれわたしの! いつの間に持ってったの?」
渡したわけでもなければ借りたなんて話でもないらしい。
「昨日シアが寝てるとき」
「もー、探したんだから」
「アリーシアさぁ、こいつ普通にマフラーも帽子も持ってるよ」
「やっぱりそうだよね。あ」
約一名、普段の三割増の凶眼で舌打ちしている。そんな男にアリーシアはふと歩み寄り。
その胸へ、正確にはうさぎのあたりへぱたりと頭をもたせかけた。
「んー、今日もふわふわー」
マフラーを堪能する頬はほころんで色が灯っている。冬の中ではひときわ肩の力が抜ける熱のありかを、しばらくながめていた。僕もシャニも。
アリーシアの身長なら、そうすることに何の苦もないだろう。この後どうなるかは別として。
「おい、早く靴履けよ」
柔らかい髪にぺちんと下ろされたのはシャニの手のひらだった。サッカーボールをわし掴むかのよう。
「出かける」
「はぁい」
くしゃりと髪をかき回す指から逃げてアリーシアは笑う。そうして玄関の脇によけてあったブーツとシューズを見比べ始める後ろ姿をよそにシャニはこちらに向き直った。
得意げに見えるのは色眼鏡のせいだろうか。
「な」
「な?」
***
甘いとも辛いとも判別がつかないのは、香り。
雑誌を返そうとしてオルガの部屋へ入ってしばらくしたときに、それはふわりとぶつかってきた。空間自体というよりは、椅子から立ち上がったオルガ自身がうっすらとまとっている気がする。つい大げさなほど首を傾げてしまうのは、上品に分類されるであろう香りがもの珍しかったせい。
「オルガ香水始めたの?」
「ま、気分でな」
オルガが指差したデスクの上の小瓶は透明で、中にこれまた無色透明の液体が半分ほど収まっている。色がないのに香りはあるなんて不思議な話だ。オレンジジュースはオレンジ色。
今朝それを飲んでいたのはちょうどここへやってきた第三者。
「ふーん。なんでまた」
「撒き餌」
「は?」
そんな応酬があったことを知らずに、開けっぱなしのドアをくぐって。
「あ、クロトも? オルガ、これ借りてたマンガ」
わざわざ僕の背中にくっつくようにしてから入ってきたアリーシアは、次の瞬間には「わー」と表情も声も華やがせている。
知らない、いいものに出会ったときの顔だ。
「いい香り。石けん?」
「ハズレだハズレ。お前、自分が好きな匂いはぜんぶ石けんだと思ってんだろ」
「そんなことないもの。グレープフルーツとかバニラとか」
「食べものばっかじゃん」
「そういうクロトは詳しかったり?」
「アリーシアよりは?」
確実にどんぐりの背比べだけど。
「ほんとかなぁ」
至近距離でふくれる頬はどんぐりもため込めそうに丸くなる。そんなリスをつついて注意を引いたのはオルガだった。片手に例の小瓶を掲げながら。
「つけてみるか、アリーシアも」
「つけたいつけたい!」
「おう、こっち来い。一応聞くがお前は?」
「僕はパス。ねぇ、次のやつ借りるからね」
「図書館じゃねぇんだぞ」
ひらひらと手を振るのは「勝手にしろ」の合図。貸出停止をする気まではないらしい。その手がアリーシアの頭をやすやすと、クレーンのように捕まえるのを背に本棚に向き合うと、ふと浮かぶ疑問があった。
「香水つけるときってそんなふうにする?」
どんぐりレベルの知識のせいで声にはならなかったが。振り返ってみれば、オルガの胸に引き寄せられていたアリーシアがいる。正確には、その白いブラウスの小さな背が。
「今日はオルガとおそろいだね」
大喜びで作業を待つのをよそにオルガは僕へ視線をよこした。
してやったりな顔に見えるのは僕の気の持ちようだろうか。
「な」
「な、じゃねぇよ」
***
そうして。
今朝のアリーシアは僕の隣にいた。じっとスクランブルエッグの完成をながめている、または狙っている。けれど、このフライパンの中身がなんだろうとこうなっていたはずだ。
「きらきらするよね、卵って。おいしそう」
アリーシアがこの声をするときはいつもこんな顔だから。
卵の焼ける香ばしい音とともにやっと納得する。彼らも独自の狩猟もとい手法を確立していたらしい。
「餌づけ……」
「なぁにクロト?」
「なんでもないよ。アリーシア、食べたいんならわかるよね?」
「わかってますとも」
意気揚々と皿を取りに行こうとしたのを引き止めて、出来たてをひとくちわけてやることにした。指ごとかじられる可能性を踏まえて、スプーンで。
ランダム単語ガチャ No.1758「なるほど」
