※「急がば回れ」の続きです。
この寮に移ってきてすぐのアリーシアは、たびたび自室に鍵をかけ忘れていた。それが外出時だろうが就寝前だろうがお構いなし。他の三人が施錠など全くしないからそういうものだと思ったというが、平和ボケにもほどがある。
「知らないの? 出るらしいよ、ここ。すげー怨念持ってそうなやつ」
築何年なのかは知らないが。そう脅したときは震え上がっていて面白かったし以降は効果てきめん。けれど今日ばかりは、久々に訪れた平和ボケに感謝すべきだろう。
見下ろす先のベッド(いつも通りぬいぐるみが群れている)では、眠っているとはいえるアリーシアが横たわっていた。ほんの少し眉を寄せて、呼吸は薄く。カーテンを閉め切り、照明を落とした部屋の暗さと相まって、傍から見れば昨夜より悪化している気すらする。
「戻ったよ。おーい、平気? この指何本に見える?」
「ハッシュドポテト……」
キャッチボールにもならないやりとりをしたあの瞬間より。持ち帰ってきたナポリタンはアリーシアの口に半分も入らなかった。残りはラップをして冷蔵庫に放り込んであるが、多分僕のものになるだろう。病人には少し重そうだ。
「お薬嫌い、病院もっと嫌い」
それはなぜか寮生全員に共通する認識。有無を言わさず彼女へ錠剤を飲ませるはめになった一因だった。その甲斐あってこうして形だけは落ち着いているわけだが、こちらは一向に気が休まらない。
「クロト」
最後に聞いた僕を呼ぶ声が、消え入りそうに潰れかけていたせいで。
あれからひと晩たったのだから、喉だって少しはよくなっていなければ困る。アリーシアの様子を見てすぐに出ていくはずだった脚は、もこもことしたラグに絡まれたかのように動かせなかった。冬に向けて彼女がフローリングに広げていたもの。
「これから寒くなるからね」
そうして笑っていた本人は、今は厚い毛布に埋もれている。ここまで近づいたうえで膝をつき、ベッドを覗き込まなければ表情ひとつ確かめられないほどに。
声も呼吸も。
この時間になっても起きてこないのは、この重しがあるからかもしれない。かといって剥ぎ取る気もなく――できることといえば、手を伸べることくらい。
「アリーシア」
パジャマのボタンがひとつ外された、白い喉元。僕の名を形作った音のありか、そのあたりに指先をそっと滑らせる。午前の冴えた空気に触れた冷たさと、彼女の芯からやってくる熱。遥かに後者が勝っていた。弱々しく脈打つリズムがその温度を断続的に押し上げてくる。鼓動のすべてを拾いたくてややきつく指をうずめると、ふと細かな振動がうめき声とともに爪を包んだ。
「……気持ちいい。冷たくって……」
まつ毛を震わせるような緩やかさで、アリーシアは目を開く。暗がりの中で前置きもなく自分を見つめる人物が誰なのかをわかっているかのように、穏やかに。
「ごめんね。せっかく買ってきてくれたのに……」
「……もう朝だよ。また今度食べに行けばいいじゃん、アリーシアが完全復活したらさ」
朝、とアリーシアは繰り返す。視線だけで部屋を見渡して、そうして僕へと意識を戻し。
「そっか……クロトが守ってくれてたんだ」
ひとり納得して頷いている。が、当然話は見えない。
根拠のある安心した笑みがそこにはあるのに。
「なに寝ぼけてるわけ?」
「だって、しばらく寝られなかったもの。ゆうべ……」
ベッドに押し込まれた手をやや難儀して抜き出し、アリーシアは喉に乗る僕の指へ触れた。少し熱いのは、ずっと毛布にくるまれていたから――それだけならどんなによかったか。冷たいよりよほどマシなのにそんなことを考える。
「すっごい怪力のおばけが来たらどうしようって」
「来ないよそんな健康的なヤツ」
「うん、大丈夫だった。ありがと、クロトのおかげだね」
杞憂を笑う流暢なことばは、気づけばざらつくことなく軽やかさを取り戻していた。だがやはり寝ぼけてはいる。あんなにも昔に話した怪談を今持ち出すのだから。
それに、怪力の怨霊を追い払ったのは僕だという。
「……まぁね。あんなの朝飯前だって」
「クロト、朝ごはんまだなの?」
「あーあーものの例えだよ! ほら、アリーシアも何か食べた食べた」
眠たがるのを無理やり引っ張り起こし、そこでやはり気になって尋ねてみた。
「僕、そんなに強いと思う?」
「おばけよりずっと強いよ」
手放しに身を預けてくるのが、その答えの裏づけのよう。
「ふーん、そう」
そんなつもりはなかったけれどアリーシアを抱き上げてみる。昨日より軽い気がしたのは、なぜだか力がわいてくるから。
ランダム単語ガチャ No.6403「頸動脈」
