ユウの周りからはときおり、ほんの少し甘い匂いがする。そんなときは、たいてい誰かに食べもの――クッキーやチョコを持たされていた。
「あんなにちびっこいと心配になるのさ」
と、食堂のゴーストたちも口をそろえる。比較対象が男子生徒しかいないからか、確かにユウの見た目は頼りない。
そんな彼女が、こんなに暗い森にひとりでいる。思い浮かべるだけで、ぞっとするような夜の寒気が一気に深まった。
「ユウ!」
呼びかけては、坑道までの道を走った。マジカルペンをかざして光を灯しつつ。
細い糸のように不確かだが、幹や下草にあの焼き菓子の香りが残っている。たどってみれば、多少は脱線するがほぼまっすぐな道行きだ。雑草に覆われて見づらいものの、かつては踏み慣らされた一本道。その流れに従っている。
行く手を覆う土は重く、わずかに湿り気がある。一歩踏み込むほどに沈み、くっきりと足跡をかたどった。
目を疑うほど小さな靴のものも、ぽつぽつと残されている。当てにならない薄さで。
「返事しろ!」
こうして森の中を走っていると、押さえ込んでいた空回りの思考がどうしても浮かび上がってきた。ユウの居場所について。
前ぶれなくこの世界に現れたのなら、前ぶれなく去っていくことに不思議はない。むしろその方が自然だ。納得を置き去りにして。
そもそも、それが正しい形。俺たちは元どおりの日々に戻り、ユウは家に帰り、それでおしまい。
――それは、だめだ。
垂れ下がって邪魔をする枝を払い、叫び出したくなる衝動を押し殺す。
ユウの望郷を知っていてそれでも、否定したかった。まだそのときではないはずと、なんの根拠もなく。
今日は、なんてことのなかった昨日までの続きだから。
だから昨日までのように名前を呼んでほしい。名前を呼びたい。背中に隠しておきたい。胸を張っていてほしい。グリムたちと騒いでいてほしい。たまにはそれに巻き込まれたい。俺の走りを見ていてほしい。まだつたなくても、走っていてほしい。
すぐ隣で。
そのすべて、目の前に彼女がいなければ何の意味もない。
「……どこに……」
言いかけた瞬間、周囲の木々がまばらになり視界が少しだけ開ける。ほのかな月明かりが、岩肌の斜面の前にぽつりと浮かぶ影を照らし出していた。
人間の形をしたそれは、片手を奇妙に中空へ持ち上げたまま鉱山の入り口を凝視している。
ウサギの穴より深い、なんの光もない暗闇を。
見たことのないおびえた横顔は、けれどすぐに判別がついた。
「……誰?」
消え入りそうな声が確信に至らせる。
ずっと探していた、探して連れ戻して、できることならどこへも行ってほしくない、彼女だと。
「ユウ……!」
腹の底から叫んだ名前は、彼女のものだった。
だが、振り返って見上げるいつもの視線は――今は、ない。
ユウが一歩、また一歩と穴へ踏み出す足は雲の上のようにふらついている。こちらの声など、かけらも聞こえていないかのように。ペンを投げ捨てる間も惜しく、空いていた左手でとっさに細い肩を掴んだ。走り寄ったせいで勢いあまり、力が入ってしまう。
こんなに冷え切っているのは制服だけだと、思いたかった。
「ユウ! おい、どこへ」
ほとんど怒鳴りつけるようにしてようやく、その肩が跳ねた。かろうじて引っかかっていた鞄があっけなく地面へすべり降り。
ゆっくりとこちらを振り返る視線は、知らないものを――おそろしいものを見る温度をしている。
「……ユウ?」
胸を鋭く貫かれたかのようだった。
ユウが、こんな目を俺に向けたことはない。その事実だけが、これからすべきことすべてをさらって台無しにしようとする。
とにかく、彼女をここへ呼び戻すのが先決だった。これでは、ただ同じ場所に立っているだけ。
その場から微動だにしないユウが手にしているのはスマートフォン。だが電源が入っていないのか画面は真っ暗で、取り出していた意味が読めない。
総じて。
俺には知覚できないものが、ユウには見えていたとしか思えなかった。
「今……」
ぶつけかける口調を、数回に分けて飲み込む。色を失った表情に何を訴えても響かないという予感があった。明らかな茫然自失。
「今、誰と話してた」
こちらへ、俺へ、意識を向けてほしかった。冷たい指へ指を重ねて、一本ずつスマートフォンから引き離す。
気分の悪くなる処置だった。それでも、ユウに触れることができる。
地面から足が離れて、たゆたっている彼女に。
「……相手は、誰だと思ったんだ?」
沈黙している機械を引き取った、瞬間。
その目が揺らいだ。雨粒がひとつ落ちた水面がどうなるか、その再現に似て静かに、決定的に、不可逆に。
そして、あふれた。
「……おかあさんの……」
震えてひび割れて、粉々になったものが。
それがユウの声だとわかったときには、その表情は深くうつむき両手で覆われてしまった。不安定になっていく呼吸に混じり、ひしゃげた涙声が彼女の喉をふさいでいく。
「おい……!」
普通ではない。このままいけば過呼吸にでもなると直感させる、苦しげな音。聞いたことのないものだった。だから対処のしかたなどまったく思い浮かばない。
こうなってしまうほど悲しいことを、どうしたらいいか、なんて。
「ユウ……ユウ、俺を……」
ふらつく体を支えようと背中に手を伸ばしたが、遅かった。完全に力の抜けた両脚を守ろうとして、いっしょに地面へ座り込む。
放り出されたスマートフォンが、鈍い音とともにそばへ落ちた。
「……俺を、見てくれ」
両腕の中で泣きじゃくるユウには、できないこと。涙を乱雑に手や袖でぬぐうから、きっと目元や頬は赤くなってしまう。そこまでわかっていて、なにも――ただのひとつも、してやるべきことがわからなかった。
恋しがっている家族に会えない、そのさなかに。
加えて、ユウに渡されたはずの石のありかすら。リドル先輩たちが持っていったもののように壊れているのか。鞄と制服、どのポケットに潜んでいるのか。見つけたところで、単純に引き離していいのか。
思考は袋小路に差しかかり――認めるしかなくなった。ここで自分にとれる手段はひとつだけ。ラギー先輩がいら立ったのはこういうことだと、胸の痛みとともに思い知った。先走ってできることなど限られている。
懐を探った。ユウが倒れないように支えながら。普段の操作すらわずらわしかった。通話履歴でいちばんに目に入った名前を反射的に選ぶ。ラギー先輩の忠告はそのタイミングで思い出したが、ためらってはいられない。
相手が応答するまでの数秒が果てしなく長かった。
「アズール、アズール先輩! ユウが、どうすれば」
「落ち着いて、ジャックくん」
――そのことばよりも、想定していた声が返らなかった事実への驚きが焦燥をねじ伏せた。
確かに通話画面はアズール先輩を示している。けれど、聞く者の心持ちを軽やかにする柔らかい声色は明らかに別人のもの。
「……ケイト先輩?」
「そ、けーくんだよ。今アズールくんといるんだ、オレが代理」
インカメラに切り替わる。俺と、そのそばを順番に見つめてケイト先輩はほっと息をついた。いっさいの動揺がない笑みは、見ているこちらにも平静を取り戻させていく。画面のバックライトが暗がりを照らすのも相まって。
「よかった、ちゃんと会えたんだね」
「はい……ケガもなさそうだ。でも」
「うん。ユウちゃんは……」
背後の物音へちらと視線を投げ、ケイト先輩は頷いた。どこか屋内にいるらしい。
「少しパニックかも。本当にそこに来たかったわけじゃないからね」
それが遠回しなもの言いだということくらいはわかる。俺たちはどこまでも後輩だ。
「……落ち着かせてやりたい、どうしたらいいですか」
「オッケー。まずユウちゃんの荷物を見て」
ケイト先輩がこちらを見渡すようにする。
「ラギーくんが渡した花はある? 白いやつ」
放り出された鞄にスマートフォンを立てかけ、中身を探る。水が残ったボトルや厚い本を取り出していると、畳んだ包装紙に挟まれるようにして例の花が数本出てきた。カメラへ掲げてみせると、力強い頷きがある。
「よし! それは鎮静効果もあるんだよ」
花びらについた土を払い、ケイト先輩の指先がくるくると軌道を描ききるのを待った。授業や文献の内容を、そこについてくる魔法を思い出しているような動き。
「花の部分を……粉にしたり煎じたりで飲ませるんだ。ジャックくんなら魔法でできるよね?」
もちろんできる。しかし唯一知っている方法をたどるには器材が必要なうえ、何段階も手順を踏んでからようやくだ。ここにあるのはせいぜいボトルくらい。代用品を森で探すには手間があった。
それなら。
「できます……けど、直接食べても問題ないですよね?」
「うん、無害だよ。ちょっと苦いらしいけど生のままがいちばん早い……」
語尾の上がりかけた、意図を掴みあぐねる返答。
それを聞いて、決めた。
「……ありがとうございます。これでできる」
「ジャックくん?」
軽いボトルを一気に逆さまにして花に水を浴びせる。いくらか土や砂が取れたところで茎からちぎり取り、うつむくユウを膝に抱き上げた。
この体勢ならやりやすい。
「ジャックくん?」
半ば無理やり顔を上げさせ、手のひらで目元をぬぐう。ユウは突然の暴挙に小さく声を上げ――やっと、視線がかち合った。
驚いて、感情のなにもかもが吹き飛んだ透明な。
「もう、泣くな」
帰れない場所へ心が引き寄せられるのを、止めることなんてできない。俺にできるのはこれくらいだった。
何か言おうとしたのか、薄く開くユウの唇へ花を押し当て。
柔らかい髪を感じながら後頭部を引き寄せ。
「ユウ」
青い香りのする花を唇でふさいだ。
苦くて甘い、ような気がする。
