「逆に、誰かの部屋に匿われてるとか?」
先ほど別れたラギー先輩は首をひねっていた。収穫物の受け渡しがてらオクタヴィネル、次にハーツラビュルの寮を探したという。
「グリムくんとケンカしてたりして。頭にきて、家出だー、って」
「もしそうなら寮長に叩き出してもらねぇと」
「ま、へそ曲げるのはグリムくんのが似合うけどね」
屋内で見つかるのなら、願ったり叶ったりだ。問題は、ユウが周囲を困らせてまで隠れ続けるタイプではないだろう点。
それだって、長くはないつき合いから来る推測だった。
寮から鏡舎へ、そして体育館から運動場。とくに体育館は倉庫の隅まで探した。ユウはどこにもいない。今は、彼女が行きたがるところの目星すら。
やりたいことなら、たくさん知っている。授業についていくこと、体力をつけること、オンボロ寮をもっと自分たち好みに改装すること――元いたところへ帰ること。
「……ユウ」
そこへ思い至り、乱れつつあった呼吸が凍りつく心地がした。運動場から厩舎へ走る足が錆びついていく。
気の遠くなるような話だったばかりに、思考の外にあった場所。くらりと揺らぎかけた体を両脚で持ちこたえるが、早鐘を打ち始めた心臓は落ち着くまでに時間がかかりそうだった。
どんなに走ったところで決してたどり着けない場所。
断崖絶壁のような事実に、今は蓋をした。首を横に振って。
まだ、その可能性を直視してはいけない。そうしたら最後、膝から崩れ落ちてしまうという確信があった。
その瞬間、ユウはきっと笑顔でいるのに。
「ジャック」
――こんなふうに名を呼ばれることはなくなるが。
「ジャック、こっちだ!」
厩舎の方からの足音はふたり分。見晴らしのいいこの場所に立ち尽くしてはいたが、いつしかうつむいていたせいで見えなかった。顔を上げた先で、制服姿のリドル先輩が夜闇をかき分けるように駆けてくる。
同じ部だろうか、かたわらに一年生の生徒を連れて。ひどく顔色が悪く、運動着の細身がもっと縮こまって見える。
「リドル先輩。ユウはまだ手がかりも……」
「わかった。僕はこのあとコロシアムの方へ行くよ……その前に」
俺と先輩から視線を向けられ、彼は嘔吐をこらえるのに似た表情を浮かべた。きつく寄せられた眉は痛々しいほどで、しかしそこには既視感があった。
「ユウのことで、なんでもいいからと聞いて回ったんだ。そうしたら彼が」
「彼女たちには悪いことをした」
弾かれるように飛び出た、彼の大声で確信する。この男は、少し前にユウとグリムに絡んでいた一年生だった。彼女たちが廊下を通りがかったところを呼び止め、手袋を床に叩きつけて宣戦布告して。俺自身が止めに入ったのだからよく覚えている。
だが今は、居丈高だったあの日の態度が幻だったかのように消沈していた。
「本当にどうかしていたんだ。あの子は私たちとすれ違っただけなのに」
「では、なぜ?」
「彼女が正すべき悪に見えたんだよ」
何の脈絡もない理由にことばもない。まったく同じことを考えているのか、リドル先輩も相づちをいっとき失う。その間にも、苦く引きつる声は続けた。どちらとも目を合わせられずに。
「先輩を真似できるいい機会だと思ったんだ」
「それで、アイツに手袋を投げたのか」
「やはり君は疲れているんだ。少し部も休まなければ」
「そんなことは……」
「なぁ」
遮る。
ここまで自省できる人間があんな暴挙に出るのが、まずおかしかった。豹変と言っていい。
そして豹変のひとことに当てはまる者に、もうひとり心当たりがあった。二年生、陸上部の先輩だ。黙々と練習に没頭するタイプだったが、最近は好タイムを出すたびに全身で喜びを表すようになっていた。ユウはあの様子を「楽しそう」とながめていたが、あまりの変わりようは部の語り草になりつつある。
そうなるきっかけは、あったのだろうか。
「それは、ほかのやつにもそんなふうに感じたことがあるんじゃないか? いつから?」
「いつからと言われても……」
ほとんど前者への肯定といえる返答は濁り、そして「あ」と息を呑む音とともに途切れた。懐を探る衣擦ればかりが響くのを訝しんでいると、ふと彼の手袋の白い手が開かれる。
そこへ載せられたのは、あと四つは余裕で並べられそうな小袋だった。
「これは」
リドル先輩がひとりごとめいてつぶやく。
ビロードを思わせるなめらかな光沢の、黒。
その中から取り出されたのは、ひび割れた灰色の石だった。
***
「寮長の、見たぞ! 写真が送られてきた!」
走りながらの通話でも、デュースの声ははっきりと聞き取れた。再び学園裏の森をあたっている彼の後ろからは、ときおり落ちた枝葉を踏む乾いた音だけが小さく響いている。
「あの黒い袋、部の先輩も持ってた! タイムが伸びるようにって、お守りで!」
「あのひとが? それをユウも渡されてたんだな?」
「あぁ。中身まで同じだったとしたら……」
デュースの語尾が小さく消えていく。
話はユウのことだけではなくなっている。リドル先輩は中身ごと小袋を持って、学園長たちのところへ戻った。彼らから生徒たちへ話が伝わるのはすぐだろう。それぞれの寮はしばらく落ち着かなくなる。
そして問題は、あの石を手にした者たちの共通点。
「さっきの一年生は、先輩みたいになりたがってた」
「陸上部のあのひとは、大会で優勝したいって……それに」
デュースが続けることばがかすれたのは、息が切れているからなのだろうか。
「ユウは」
鏡舎の前に差しかかり、足を止める。
そこでは、たったいま鏡舎から出てきたレオナ先輩が静かにこちらを見つめていた。その視線で肌が切り裂かれそうな鋭さは、今は鳴りを潜めている。悠然と歩いてくるだけ。焦っている俺とは真逆だ。
「……帰りたがってるだろうな」
レオナ先輩に聞こえるように、当然ゆえに目をそらしていたかった確信を投げかける。
短い沈黙のあと、消え入りそうに肯定が告げられ。
やがて、エースと合流したからと通話はいったん切断される。ここからは、彼女がどこへ向かったかだけが必要だった。
ほかのふたりと同じように、望みを叶えようとするのなら。
魔力のないユウが取れる手段は、以前俺の目の前で教わっていたことがいちばん手っ取り早い。
以前のエースたちの話――聞けば聞くほど無謀だと思った話が本当なら、その場所が最適解になる。
魔法石を採れるところ。
ドワーフ鉱山だ。
「行くのか?」
すれ違いながらの、レオナ先輩の問いはほとんど確認に近い。多分、行き先も含めて。
「はい。先輩は?」
「保健室に用がある。うちの寮生、陸上部の二年だ」
「あのひと、何かあったんですか」
「オーバートレーニングでぶっ倒れたんだとよ」
息を呑んだのがわかったのか、レオナ先輩は振り返った。
俺の周囲や、背後すら見渡すようにして。
「アイツはとにかく一着になりたいと日ごろから言ってたな。で、今日とうとう自己新を出した。出場できなきゃ元も子もないのにな?」
冷静さの中からにじむ、半ば吐き捨てるようなもの言い。そして俺へ視線を戻し「行ってこい」と顎で促してみせる。
「ご苦労なこったな。まだ目も開いてねぇガキのお守りなんざ」
ついでに、いつもの憎まれ口も。
「そんなことねぇ。ユウにはちゃんと見えてる」
いっそ嫌になるほどには。その確信を込めて返した。つい大声になりながら。
いつも、ユウの目の前には横たわっている。帰る手がかりの糸口ひとつ掴めない現状が。今できることをやるしかない状況が。
途方もない話を前にして、前向きでいられるのがどれだけのことか。自分には想うことだけが許されている。
引き受けることは、どうしても。
ユウへ追いついたあとにできることといえば、連れ戻すのみだ。今の彼女をひとりにしてはいられない。石のカラクリが解けたとき――目の前にぶら下がった望みがいっときのものだと気づいたとき、たったひとりでは。
ただ、そうすべきだと思ったから。そうしたいから。俺が行く理由はそれだけで十分だった。
「……もう、ほんとに行きます。絶対見つける」
歩を進める。返答は、ひらと振られる手のひらのみ。
そのはずだった。
「だが案外、お前が呼べばすぐに出てくるかもな。ジャック」
だからこれは会話にするつもりもない、レオナ先輩の希望的観測。
こんなときだというのに、振り返って意味を問いただしたくなるような。
「アイツはいつも、お前を目で追ってただろ」
