ひっくり返った声の「行ってきます」とともに、ユウは走っていってしまった。その遠因は終始楽しげに隣を歩いている。表情はいつも通りだが足取りは軽く、こちらのささくれ立った神経を何度も逆なでしていた。
「……あれも、アズール先輩の言いつけですか?」
「あれ、とは?」
「フロイド先輩が俺を運んだ件」
油断していたところを魔法で捕縛されて、店まで連れて行かれたのだから始末に負えない。おかげで、ユウが森に向かう時間に間に合わなくなるところだった。そのユウだって、先ほどのジェイド先輩とのやりとりに驚いてすぐに別れる羽目になり。弁明したい点としては、決してケンカに持ち込もうとしたわけではないこと。
「いいえ、あれはフロイドの気まぐれですよ」
答えは跳ねるような靴音とともに。本当かどうか怪しいところだ。ジェイド先輩の、隠す気もない上機嫌からしても。
「平たく言えば焼きもちですね」
けれどこの注釈は予想外だった。反射的に聞き返してしまうほどに。
「焼きもち? フロイド先輩が? 何に?」
「ジャックくんがユウさんと仲がいいのがうらやましいと。手をつないだとか」
「そんなことしてねえ」
と、噛みつけたらよかった。思い起こすのはついさっきのこと。
焼き菓子の微かな香りの向こう、日の当たるところに似た淡い温度の、丸い指先。
ふとよぎった記憶がブレーキになり、あとは芋づる式だった。すれ違う数人がぎょっとした表情をするのは、歩く先をにらんでしまうせいか。
反論の余地が瞬く間に塗りつぶされていくのを、ジェイド先輩は目を細めて見ているらしい。
「ユウさんの手が好きですか、ジャックくん」
答えは決まっていた。
答えられなかったのは、返答に割くリソースすら惜しかったからだ。このあと帰ってくるユウに、平静の顔を向けるにはどうすればいいか。その案を考えなければいけないと。
――数時間後、そんな思案は空振ることになるが。
「ユウといっしょにいるか?」
きっかけはトレイ先輩からのメッセージだった。
「オンボロ寮に戻ってこない」
***
「ファッション誌には絶対出てこないけど、絵本には出てきそう」
誰かが、監督生として授業に出始めたユウを指して言ったことだ。親しみのある見た目だということだろうか、猫っぽい相棒もいっしょだから――と、たいして気にもしなかった形容が今は腹立たしい。
虚構であるはずがない。ユウは確かに、目の前にいたのに。
トレイ先輩の端的な、気が急いて短くなった数文字を何度も読み返した。だが何度目になってもまったく頭に入ってこない。戻ってこないとは、どこにもいないということだ。
モストロ・ラウンジでのバイトが終わって少し経ったころ。辺りがすっかり暗くなって久しい時間に、血相を変えたグリムが購買部に飛び込んだらしいことが発端だった。そこへ居合わせたトレイ先輩から先生、生徒たちへ話は広まり、加えて俺のところへはデュースの要領を得ないメッセージが飛んできた。直後に通話が。
「ユウがひとりでこんなに遅くなったこと、ないんだゾ……」
「この学園でいちばん、夜道歩いてたら、ダメなヤツでしょ!」
「そっちも見かけなかったよな?」
学園裏の森から戻ってきたグリムとエースが息を切らしているのを背に、スピーカーからはデュースの潜めがちな声が届く。大声になりそうなところを踏みとどまるかのように。
「あぁ。俺もここからいろいろ回ってみる」
「ユウがスマホを持っていればな……」
デュースのそばにいるらしいトレイ先輩が低く唸り、後輩たちを振り返ったのか床がひとつ軋む。彼らはオンボロ寮に集まっていた。
そこにはユウの痕跡がいくらでも残されている。調理器具や、衣類、勉強道具。グリムのブラッシングにと用意していた大きなブラシも。それだけでは到底足りない。生活している者の、当然の存在感が。
「お前たち、ほかの行き先に心当たりはないか? 森以外で、あの子がどこかに行きたいと言ってたとか……」
「どこか、って」
エースが何かを言いかける。
その続きはなく。
***
いったん解散した通話の直後。自室から離れる足が、いつしか早歩きになり最後にはほぼ走りになっていた。慣れて意識の外にあった屋外の肌寒さは、熱くなる全身に染み渡っていく。寮を出た瞬間などは、風は針の先のように突き立って。
ユウはふだん通り制服を着ていた。それだけだ。グリムたちが見つけられないような場所で、まだ彼女が森にいるのだとしても問題だった。なにかのきっかけで動けないかもしれない体に、冷気は毒でしかない。
それとも。
雲がかかっている空を見上げる。エースが言う「夜道」の意味が、ここにきてようやく腹に落ちてきた。学園にはユウを好意的に見ている者がたくさんいる。残念ながらその逆も少々。魔力がない、それだけのことがここでは最大級の異端になる。
この間のように、誰かに難癖をつけられていたら。もっと悪く、嫌がらせにどこかへ閉じ込められていたら? そうだとしたら見つけ出せる可能性は――一度転がり落ちると止まらなくなる嫌な想像を深呼吸でやり過ごした。
無意味なこと。わかってはいても、闇雲にでも動いていないとどうにかなりそうだった。
「そんな深刻な顔しないで、オレも来たんだし」
メッセージでの約束どおり、寮へ寄り道してくれたラギー先輩の声がなければ。外灯の下に踏み入りながらポケットを探りつつ、こちらを手招きする動きに一切の無駄はなかった。その肩から提げた大ぶりのトートバッグが、こんもりと膨らんで揺れている。
「他の寮も回んなきゃだから手短にね」
スマートフォンの画面を見ながら「正確な時間はわからねーけど」とも前置いて。明るくなる液晶が、暗がりでラギー先輩の頬を照らした。
「うん、オレもユウくんと会ったッスよ。森の、わりと入口のとこで」
授業や自習に使われる素材を、ラギー先輩はバイトとしてあちこちでよく採取している。今日もそうだったらしい。
「じゃあ俺と別れてすぐですね……」
「だから、しばらく森にいたのは確実。コースの下見だってオレにも話してたし……それよりさ」
ふと、ひずむ語尾があった。
そしてひとつの瞬きが。
「この件でジャックくんが責任感じることないんじゃないの?」
どこかと連絡を取っているのか画面を操作しつつの、真剣な上目遣いが唐突に刺してくる。こちらの一挙手一投足を見逃さず観察するように。
「そりゃあ最近よくいっしょだったのは知ってるッスよ。だからってユウくんのことで、なんでここまでアツくなるんだろー、って? なにか得? 見返りとか?」
「……ユウに何かあると俺が困る。それだけだ」
こうしている間にも、きっとユウはひとりで不安がっている。そう考えるだけで何も手につかなくなるのは火を見るより明らかだった。
あの日の表情を知ってしまったから。
「それって、どこ?」
そう、ユウはぽつりと口にした。グリムを抱いていた手から力が抜け落ちなかったのが不思議なほど、芯のない声で。そのとき感じた焦りは、あるのが当然と思っていた陽光がかき消えるようだった。それも、永遠に。
彼女は柔らかく笑うが、目標に向けて突っ走っていられるが、それが失われるのはたやすい。そう確信させるのに十分な光景に、思わず手を差し伸べていた。傲慢にも、力になってやりたいと。
ユウが安心していられる居場所になりたいと。
「……ほーんと、わかりやすい。下心とかないんだから」
その思い上がりを、ラギー先輩はふっと笑い飛ばした。ともすれば刺突に様変わりしそうだった雰囲気は、いつもの軽快なものに戻りつつある。
「ラギー先輩だってそうだ。アイツが心配だから協力してくれるんでしょう」
何の迷いもない頷きも。
「ユウくんが今ごろ腹空かせて、目回してたらどうしようって」
「そこだけは大丈夫……の、はずです。ジェイド先輩が試作品を渡したって言ってたからな」
なんでも、ユウがレシピを教えながらふたりで作ったクッキーが元らしい。なぜふたりで、だったのかはこの際仕方なく置いておくとして、彼女のレパートリーは基本的にカフェのもの。だからモストロ・ラウンジ向けの料理をフロイド先輩に叩き込まれる羽目になっていた――という回想へ、ラギー先輩の苦い悲鳴が混じる。
「うーわ、あのクッキーってジェイドくんが? だからか」
「だから?」
「オレが数枚もらおうとしたら、めちゃくちゃ渋られたんだよね。ユウくんにしては珍しく。もらったけど」
「なにしてんですか……」
視線誘導にユニーク魔法。ラギー先輩が一般生徒から物を強奪する手段はいくらでもある。ユウ相手なら腕力の二割でも足りるだろう。思わず疑いの目を向けると、スマートフォンを握ったままの手があわてたように振られる。
「いやいや、ギブアンドテイク! お礼はちゃんと渡したって! ほら、これ」
トートバッグから慎重に取り出されたのは一輪の花。魔力を帯びやすい性質があるとしてさらりと解説されて、授業で見たことだけはある白い花弁の株だった。ユウは「サクラソウみたい」と言っていたか。薄く土がついているが、きれいに咲いている。
「少しはユウくんの財布の足しになるかもって。運ぶなら石より花のほうが軽くていいでしょ、女の子なんだし」
ラギー先輩も、彼女の考えをだいたい知っているらしい。目的がお金かどうかはともかくとして。
そこで、この話で連想する者たちへ頼ることが頭から抜け落ちていたことに気づかされた。寮服のポケットから急いでスマートフォンを取り出そうとするせいで、手がブレる。
「アズール先輩に連絡してませんでした。すぐに……」
「あー、アズールくんたちには今オレから聞いたッス。もう話は把握してるってさ」
その眉が気まずそうに寄せられる。
「しばらくオクタヴィネルには関わらないほうがいいッスよ。めちゃくちゃ気が立ってる」
