何度目かの、濡れたものどうしが離れる水音のあと。
どこか呆然としたため息らしきものが、少し離れたところから聞こえる。ややノイズ混じりに。
「……ん? んー、なんでもない。ふたりは大丈夫そう」
じゃあね、と言い残し返答も待たずにケイト先輩は通話を切った。それどころではないのを察したのだろう。
俺も、ユウも。
「ジャック」
想定より大きく口を開けて、ユウは弾んだ呼吸のまま俺を見つめていた。さっきまでの、針の飛んだレコードじみた不安定さよりよほどましだ。事態をやや飲み込めていなさそうな様子はさておき。
「どうして?」
「お前が」
どれに対しての「どうして」なのかは勝手に解釈し、腕の中を見下ろす。放り出したマジカルペンが放つ弱い光が、縮こまるユウの姿を照らしていた。
やっと取り戻して、確かにここにいる彼女の。
「お前をなくしたくない」
こうして背に触れていると、丸くなった目に見つめられていると、なおさら。
たったの数時間、行方がわからなかった。それだけの欠落が胸を握り潰していった。
この事実が答えで、すべてだった。
「だから勝手にいなくなるな」
「……うん」
「だから、どこにも……」
奥歯を噛み締める。
今、とても酷なことを言いかけた。ユウもそれがどんな意味なのかわかっていたはずで、けれど小さく頷き。
「ありがとう……」
また目を潤ませるから、髪をぐしゃぐしゃになでて混ぜ返しておいた。泣く子どもは家で見慣れていたはずなのに、ユウのそれはどうにも苦手だ。
***
「ごめんね」
薄いクッキーを噛み砕くのに似た、さくりと軽快な足音がときおり響く。落ち葉を踏む靴音だ。それに呼応するように、木々の間からわずかに覗く星空がちらちらと瞬いていた。
扉までの帰り道は、往路とはまるで違っている。夜闇はさらに深くなり、ユウは情けなく肩を落としているのに。
しっぽが右に左に揺れて止まらない。隣を歩く彼女にかすめている気がするが、それでも。
「たくさん泣いちゃった」
いっそ新鮮なほどに、道行きはゆったりとしている。
ユウは俺の小指をそっと握りしめていた。
「小さい子みたい。みんなだって家族と離れて寂しいのに」
「……それとこれとは、違うだろ」
文字通りに次元の違う話。会おうと思えば、生徒たちは望む場所へ帰れるのだから。苦く笑って「そっか」と、ひとことで飲み込むには厚すぎる隔たり。
「ジャックのおうちは遠いの?」
「遠い。輝石の国ってとこだ、今ごろはたくさん雪が積もってる」
「雪国なんだ」
振り返る先の表情がまぶしそうにほころぶ。
「いいね、雪遊びできるの……」
「ユウのところはどんな国なんだ?」
「わたしの?」
意外な質問だったのか、返答には少しの時間が挟まった。
「一年中ごはんがおいしいよ。山も海も、食べものがたくさんとれるんだ」
「そうなのか。冬はどんな料理なんだ?」
「魚介は……シチューとか、鍋かなぁ。あったかくって具だくさん」
「食べるの好きなんだな。本当は」
いつもの少食ぶりが鳴りを潜めた、大きな鍋を連想するメニューたち。不思議そうに「今も好きだよ」とだけ返すユウは気づいていないようだが。
そして、誰かと囲むことが多いだろうメニュー。
もうすぐホリデーの期間がやってくる。
「……そういえば」
学園に残るユウたちの姿、その想像をかき消そうとあえて話題を変えた。
「ラギー先輩に聞いた。学園裏で……」
「うん、先輩と」
やや考え込む間があった気がする。
「交換したよ。ジェイド先輩のクッキーと、お花。素材は、買い取ってくれるひとがそこそこいるからって言ってた」
何かをつまんで口に運ぶジェスチャーとともに笑顔がある。よほど先輩の手作りがおいしかったらしい。
「お菓子もいいけど、もっと栄養ありそうなのも食べなって」
「それは俺も賛成だ。じゃないとすぐにバテる」
ただでさえいろんな騒動に出くわしている毎日だ。だというのに、ユウは自分の身に無頓着なところがある。指摘されてもピンときていない様子の食がいい例だった。今回のことでいえば、よく知らない相手からよくわからないものを受け取ったままにしている点か。
しかし、そうして諸々をサボった分の余力をユウは別のことに使っていた。授業に、生活に、なによりも家に帰るための探索に。
だからユウはこの場所に来た。
「……さっき、帰りたいって、帰れるって思ったの」
ずっとそのことを考え続けていた者の、真摯で愚直にも通じる熱がある。
「あの穴を抜けたら……すごくきらきらしてたもん」
足場が岩混じりになり、前を向き直る。タイミングがよかった。それはきっと見間違いだと否定したくなるから。なんの光も受けない石が輝くことは。
けれどユウには目印に見えたのだろう。暗いところで唯一のもの。あのとき止めなかったら、踏み入っていたのだろうか。
そんな疑問へ答えたのは彼女自身だった。
「でも、好きだよ」
――温かな手が俺の小指を握って離さない。
「みんな好き」
それはきっと、どちらの世界のことも。
だから、ユウはどこにいても幸せに暮らせる。どこにいても寂しさを抱えたまま。
足を止めて隣を見下ろす。ユウは俺をまっすぐ見上げている。
いつも、こんな目をしていた。多分俺が気づいていないときも。面映くなる、誰かに手渡すプレゼントのような。
「欲張りかな」
「……そんなこと言ってるやつは損するだけだ」
どこか控えめな手を、こちらから包むようにしてつなぎ直した。もう、簡単には外れない。
そうしてようやく思い至る。
「ぜんぶ手に入れていい」
俺たちは、誰に何を遠慮する必要もない。魔法も、力も、自分がどこにいるべきかも。
「ぜんぶだ、ユウ」
俺も、と言いかけ、悪癖が出たと口をつぐむ。だが彼女から返ってくるのはいつもの、こんな笑みだ。
「ありがとう」
「勘違いするなよ。お前ひとりじゃ無謀に決まってるからな」
熱くなる顔を背けても無駄なことだった。ユウの視線が俺の少し上、動いて落ち着かない耳のほうへ集中していく。気配が刺さるからわかる。ついでに、しっぽはさらに動きを増していく。
「だから、ありがとうなんだもん。ね、ジャック」
ふっと、華やぐ声色が近くなる。背伸びでもしたのだろうか。耳打ちにはかなり無理があり、けれどことばはしっかりと届く。
誰から、何を隠そうとしているのか小さく。
「大好き」
――小さく、俺にだけ聞こえるように。
振り返る。ユウは念を入れて声に手のひらを添えていた。彼女の言う「きらきら」を思わせるまなざしとともに。
問いかけようとして、そのためのことばがひとつとして自分の中にないことに気づく。
これは、この目は知らない。この意味は。
無音がふたりの間に満ち――けれどじょじょに崩されていく。慌てた足音で。
辺りを震わす大声で。
「ジャック! ユウ!」
ユウが遅れて気づき、行く手に目をこらす。そこらに生い茂る枝葉から体をねじ込むように出てきたのは、髪のあちこちに葉をくっつけたエースだった。険しい表情で。
「追ってきたのか」
「そりゃもう! ここのこと聞いてなかったわけ? ゴーストとかさ!」
「エース」
おそらくは「心配かけてごめんね」あたりを口にしようとしたユウが、それを飲み込む。
エースはしばらく肩で息をしていた。それが俺を、ユウをあらためて視界に収めるごとに落ち着いていき。
なにかをぐっとこらえるように目を細め。大きく両腕を広げ。
俺たちの肩を同時に、思いきりはたいた。
その拍子に、ユウの制服から黒い小袋が地面に落ちる。ぱきりと、乾いて微かな破壊音はあっけなく。
***
それからエースとふたりでユウをオンボロ寮へ送り届け、集まっていた者たちがその帰還をようやく目にして。そうして真夜中に騒動は一応決着した。
――とは、どうやっても言えない状況にいる。
目の前では、ユウの帰りに泣いて安心して喚いて飛び跳ねていたグリムが腹を出して寝転がるベッドがある。
その隣では、彼を抱いていっしょに入浴を済ませたユウが横になっていた。うとうとしながら。
一見、穏やかな光景だ。だがひとり異分子がいる。俺。
なぜこの男はシャワーを借りたうえにふたりの寝室にいるのか。
なぜ、ここで外泊することにされたのか。
すべて、あるメッセージのせいだった。
