朝、廊下でわたしを呼び止めたのは三年生の先輩だった。自己紹介とともに聞かされたのは、授業と並行して自分の研究も進めているということ。着込んだ実験着がいかにもな説得力。
「僕は将来、魔法の道具を作る工房を開きたいんだ」
手触りのいい、光沢のある黒い小袋は畳んだハンカチよりもっと小さなサイズ。巾着のように紐で開閉できる口がきつく締め直される。
「君にもひとつあげるよ。安全祈願の魔法をかけてある」
「いいんですか? でも」
「最近あの店でよく働いているだろう。僕からの応援の気持ちと思って」
中身を袋の上から指先で確かめて、先輩は笑って手を振ると足取り軽く自分の授業に向かっていった。その間、いっしょにいたエースやデュース、グリムたちには目もくれず。
そうして先輩が廊下の曲がり角へ消えた直後、手短な話をそばで聞いていたエースは小声で騒ぐなんて器用なことをする。
「いや、絶対おかしいって! ユウと初対面だろ、そんなものさらっとくれる理由がわからねー!」
「疑いすぎだ。見た感じでは変な魔法はかかっていなさそうだし」
袋を指先でつまむデュースは、まじまじとながめてわたしに返して、を二度繰り返した。それでもエースはどこかが気になるようで、眉を寄せながらわたしのあちこちを観察する。
「そーだけどさぁ何だよ安全祈願の魔法って。聞いたことねーよ……ユウは何もないよな? めまいとか」
「大丈夫。それにしてもきれいだね、これ。つやつや」
「ユウ、中身見ねーのか?」
「何となく……ご利益が逃げちゃいそう」
「ちぇー」
グリムの名残惜しそうな視線から引き剥がして、小袋を大人しく制服のポケットに収めることにする。神社のお守りのように、開けないようにして。
***
今日は、授業が終わったらすぐに学園裏の森に行くことにしていた。きっかけは陸上部の先輩たちからのアドバイス。
「あの森はそこそこの大きさと、そこそこの起伏があるんだ。往復してもへばらないようになれば合格だな」
そうとわかれば挑むべきというものだ。別の目的を果たすのにもうってつけ。今日のところは、どんなコースなのか歩いて下見に留めておくけれど。ミネラルウォーターのボトルを鞄に入れて準備は完了。
自分たちの部活に向かうエースとデュースとは別れて、校舎を出るころにはわたしひとり。終業とともに教室に現れたフロイド先輩が、グリムを抱っこして意気揚々とモストロ・ラウンジに連れて行ってしまったからだ。シフトが入っていたとはいえとんでもない出勤風景。
先輩がその片腕に、暴れるジャックをやすやすと抱えていたのは見間違いだと思いたい。
――なんていう希望は、午後に傾きかけた日差しの中で早々に否定された。
「おふたりからの伝言を。『俺に構わず早く行け』『オレ様はお前を信じてるんだゾ』だそうです」
わたしを待っていたかのように、メインストリートからやってきたジェイド先輩によって。
「行きづらい……ふたりは今?」
「えぇ、よくがんばってくれていますよ。ジャックくんはとくに、ホリデーに向けてなにかと入り用らしく」
もう少ししたら、ホリデーでみんなが地元に戻っていくという。ジャックはそのとき、家族におみやげをたくさん買っていくのかもしれない。
ふだん会えないぶん、本当にたくさんを両手に抱えて。
「ユウさん」
静かに呼ばれる名前が、思考に沈みそうになるわたしを引き留めてくれた。
「寂しくなりますね。まだ先のこととはいえ」
「とっても……」
頷きながら答えるのを、ジェイド先輩は後ろ手のまま笑顔で見下ろしている。見透かされている気がして、続くことばが切れ切れに喉へ落ちていってしまった。
姿勢のいいきれいな立ち姿から真横に伸びる影は、これからどんどん長くなっていくのだろう。思わず外してしまった視線は、ふとその手が持っているものが正面に回されたのを捉える。
かさり、と軽い音とともに差し出されたのは、オレンジ色が可愛い紙の包装だった。纏っているほのかに甘い香りは香ばしくて、中身がお菓子だと推測できる。
「どうぞ。貴女が教えてくれたレシピを少しアレンジしました」
「あっ、あのアイスクッキーの!」
小麦粉をふるい分けるわたしの隣で、ジェイド先輩がスマートフォンで数枚の画像を見せてくれたのはおとといのこと。魔法薬の精製に使われる植物や、魔道具の原料になる鉱石の採取についての話は、聞き入って作業の手が数回止まってしまったほどだ。なにしろフィールドワークをしている本人の実感がこもっている。
「夢中になって栄養補給を忘れると、だんだん頭がくらくらしてきます」
の部分は記憶に新しい。ほかのかたには内密に、といたずらっぽく笑っていたことも。
「道中、たくさん食べてくださいね」
「ありがとうございます! わぁ、ほんとにいい香り」
「お気をつけて。今度は僕もご一緒させてください」
「はい、ぜひ!」
「……あまり無茶をしないように」
手を振って去っていく背中に、行ってきますとだけ返事ができたのはほとんど奇跡だった。
にこやかな表情に、ほんの少し苦いものが覗いていた。ジェイド先輩にはわたしの魂胆がほとんどバレているのだろう。体力と同じくらい、魔法を求めていることは。この鞄の中に、図書室から借りてきた鉱物図鑑が隠れていることも。
森へ向かって歩き始めながら、ふと尖塔のようにそびえる校舎を見上げてみる。あれくらい高いところまで飛べたら、いろんなところが見渡せるだろう。もしかしたらわたしの家の屋根が見えたりするかも、なんて期待もふくらむ。
それにしても、本当に縦に長い建物だ。てっぺんまで確かめようとしたら首が痛くなる。勢いあまって後ろに倒れてしまいそう――ぼんやりと考えていたから、気づくのが遅れた。
まさにその後ろから、わたしを呼ぶ声が追いかけてきていることに。それも、何度も。
「ジェイド先輩?」
振り向きざま、その足音が鋭く力強いことを知る。走ることに慣れた、まっすぐ地面に突き刺す響き。
「ユウ!」
油断して宙ぶらりんになったわたしの腕を、緩やかに包んで止める手。こんなことができるくらい大きな手のひとは限られている。
いつもは低く、落ち着いているこの声も。校舎よりずっと見上げ慣れた、高いところからの視線はとくに。
「ジャック! お見送り、来てくれたの?」
視線が合うと少しだけ見開かれ、細められる目がある。自分でも不思議になる。どうして、こんなに呼んでくれたことが聞こえなかったくらい没頭していたのか。いつだって、振り向いた先に彼がいることは晴れが快晴になるくらい、まぶしいことなのに。
当のジャックは何かを言いかけて、ふいと横を向いてしまったけど。
「……そうじゃねぇ、勘違いするなよ。とにかく、フロイド先輩の隙を狙ってきた」
「えっ、じゃあお店……鏡舎から?」
相当な距離を走ってきてくれた直後とは思えないほど、まるで息が上がっていない。それなのにジャックはやけに歯切れが悪かった。
「その、とくに用はない。いやある」
こんな具合。髪に手をやったり、わたしの奥のほう、森へ視線をやったり。ふわふわの耳がときおり跳ねるように動くのも、ふだんより多く感じる。
「ユウ……昨日のクッキー、ありがとな。また食いたい」
「よかった! また焼いて持ってくね?」
やっぱり、同じ硬いでも食べるならおいしいおやつ。けれど、楽しいことばとは裏腹にジャックはわずかにうつむいた。目線を追って下を見てみると、ぱたぱたと左右に揺れては止まるしっぽがある。
それは考えごとをしながら料理をするときの、不安定な包丁のリズムに似ていた。さっきのことばの、ぎこちなさも。
「ジャック?」
「……まだ俺は先輩たちみたいに、薬草とかには全然詳しくねぇ」
わたしの腕から離れていく手がきゅっと握り込まれる。たくさんのお皿や教科書を難なく運べる力強さは、今は影を潜めていた。
「ああいうことでは、助けになれないな」
「ううん」
首を横に振る。
ジャックの制服の袖口をつまんで引っ張って、全然まったくそんなことはないと前のめりに断言した。いつもわたしを見ていてくれる目に、背中をそうっと支えられている気がするから。
「来てくれて嬉しい」
頑なになってしまった拳へ、寄せられた眉へ。そう願ったのが伝わったのか、ジャックはふっと肩の力を抜いたようだった。
わたしの指へ、少し硬い指を添わせて。
「……暗くなる前に戻ってこいよ」
「うん!」
「ジャックくんは僕と戻りましょうね」
――息を呑んで勢いよく振り向いたジャックは一歩後ずさった。広い背中がわたしへ真正面からぶつかってなお、今何が起きたのかすぐには飲み込めない。
ここにはわたしたちだけだったはずだ。
「わ」
「あ、悪い。出やがったと思って」
「おやおや、ひとを悪の手先のように」
さっき別れたジェイド先輩がいるのは、間違いなさそう。下草を踏む音すらさせずに。そびえ立つジャックに隠れて見えないけれど、多分とてつもなく楽しそうな笑顔で。
「アズールからメッセージがありまして。ジャックくんは確実にユウさんのところに行くだろうから、捕まえて連れ戻せと」
「言われなくたってそうする、というかなんで読まれてるんだあのひとにも……」
「これほどわかりやすい相手もない、というほどわかりやすいと思いますが」
「あんたは」
言いかけて舌打ちし、ジャックは唐突にわたしを振り向いた。首だけで無理にそうしようとするから苦しそう。
「おいユウ、俺に構わず早く行け」
「本日二回目のフラグですね」
ゆっくりとジャックはジェイド先輩へ向き直り。
直後、今にも咆哮に膨れ上がりそうな唸り声がする。
「行ってきまーす!」
ジェイド先輩の煽りスキルの高さはどういうことだろう。ともかく、ジャックと取っ組み合いのケンカが始まる前に急いで回れ右をして駆け出した。わたしひとりで鎮圧できるわけもなく。
なぜだか先輩はジャックに対して、少しからかいたがりだと思いながら――ふたりが応援してくれるのを心強く思いながら。
