歩いている途中にポケットから落ちたハンカチのよう。
目の前で座り込む、というよりくず折れている人間を見かけた第一印象がそれだった。艦の廊下を壁伝いに進もうとして力尽きた、肩で息をする人影。
見慣れた、小さな背中の。
「アリーシア」
そうだよな、と呼びかける必要もなく察しがつく。
彼女は午前、食堂の前で年配の研究員に私物を譲られて喜んでいた。確か、丸っこいクマのキャラクターのシール。
「ピルケースに貼りますね」
なんてこともない、好意への謝意で微笑みかけられた白衣の女はアリーシアが立ち去った直後にトイレに駆け込んだ。吐いたのだという。
故意でないのならなおさらタチが悪い一件だ。とにかくクマが好きな被験者がここでこんなことになっているのは今回の薬を渡したあの女のせい、そして白衣どもをまとめる顔も知らない誰かのせいの半々。
食後に一錠、あの薬はいろんな人間を壊すらしいとんでもない代物だ。そんな白々しい推測を指先で弄びながら正面に回り込むと、青を通り越して白くなった頬がある。こちらに気づきはしたようだが、視線を上げる仕草は存在しないはずの重力に負け、目は合わないまま。
「オルガ」
聴力は健在。
「助けてオルガ、痛い……」
「……どこが」
「頭が……でもわからない、わからな」
震えが一瞬酷くなる指先が、見下ろす先でぴくりとも動かなくなる。その感覚は身に覚えがあった。腹が立つほど。激痛は神経を摩耗し思考と肉体の乖離を進めていく。それはある種救いで、だが慣れていない人間には恐怖の対象でしかない。そろそろ助けを求めることばの形すら描けなくなる、パニックの入り口に差しかかるころだ。
「寒いの、どうして……?」
暴れる気力も失せているのなら好都合。ひとつ息をついてその場に腰を下ろした。まだまだ初期症状の類だ。うまくすればすぐに落ち着く。
彼女にとっては死に等しいが。
「踏みとどまろうとするからキツい。いっそ気絶したほうが楽だ、ぶっ倒れちまえ」
――かろうじて届く声。痛い、と言ったのだろうか。返事にもなっていないそれは「だから気の失い方などわからない」と続くのだろうか。すべてが推測。だがきっと正しい。
今のアリーシアは、かつての自分だった。腹が立つほど。
「……アリーシアのとこはどうだったんだ」
俺はダメ押しの投薬の後は放置された。それは、こんなふうに痛みに貫かれる自分を周りがどう扱ったかの答え。だが彼女は「助けて」と言った。以前は、助けてくれる誰かがいたから。
その人間たちはアリーシアをどうしたのだろう。それは、普段のアリーシアを見ていればなんとなくわかる答え。
「……寝ろ」
ぐらつく頭を手のひらで捉えて、こちらの肩にもたせかける。そのときちらと前髪の奥から覗いた目は、泣きはらしたように潤んで赤くなっていた。嘔吐の前後はみんなしてこんな顔をする。痛むのは頭なのに、胃が縮んでひっくり返り喉から出ていきそうな予感すらわいて出るのだから迷惑極まりない現象だ。
こうして抱いていれば、体が内側から壊れていくあの空想を押さえつけることにならないか――アリーシアの隣にいた者たちに比べたら貧困極まりない発想だろうが。
「痛いよ……」
これ以外にできることはなかった。今ここにあるのは両手だけ。彼女の頭をやすやす掴める大きさというだけの。
ほかの誰にも聞き取れない声を、拾い上げられるだけの。
「オルガ」
乱れて途切れかける呼吸だけは、はっきりと伝い。
やがてアリーシアはぐったりと体重を預けて今度こそ意識を手放した。
「……やればできんじゃねぇか。世話のかかる」
小言は床に落ち。
こいつもいつか気絶に慣れ、嘔吐に慣れ、しかし痛みだけはどんなフィルターでもろ過できずに受け取るばかりになるのかもしれない。そうなる前に、ついでに言えば眠っている間に死ねたら、それがいちばんマシな結末だ。俺もアリーシアも。
今日はまだ、そうではないらしい。それだけ。抱き上げた体がまだ熱を持っていることに安堵して、さっさと医務室へ放り込みに行くことにする。
泣き濡れた頬を直視する前に。
ランダム単語ガチャ No.9403「ブループ」
