有刺鉄線

 

 蝉の抜け殻がひとつ、むき出しの地面の色に溶け込むようにぽつりと落ちていた。正確には、ただの枯れ葉色をしたかたまりを見つけただけ。それが生き物が残していくものだと知ったのは少し後だ。

 今思えばあれは、硬そうな爪と虚ろな目。触れてみたくて伸ばした手を阻むのは施設を囲む鈍色のフェンスだった。

 その上部に絡みつくものは棘。

 棘に触れたら最後、たくさんの血が流れて死ぬ。はたまた、王子さまが迎えに来るまで眠り続けなければいけない。そんな次元の違う主張をし合っていた子どもたちの声は、しかしその姿を思い出すことはない。覚えているのは、空気の隙間さえ埋め尽くすほどに騒音が満ちていたこと。

 地面と金枠の隙間からなんとか引き寄せたあの目がこちらを向いていたこと。

 それらを焼き尽くすような陽炎が揺らめいていたこと。

 ***

 小さな体が発生源だとは思えない、あの日と同じ耳ざわりなノイズは蝉の鳴き声。エンジン音すらかき消しそうに幾重にも積もり、途切れる気配もなくどこまでも追いすがってくる。忌々しそうなため息の後、助手席にふんぞり返っているクロトは手の甲で額の汗を拭った。とっくの昔に脱ぎ捨てた軍服はくしゃくしゃに丸めて足元に放っている。

「無駄に広いんだよ、ここ」

 ついでに無駄口も放って。

 さして重要な拠点ではないのか満足な軍備を割り当てられず、白い日差しが注ぐ敷地へまばらに鎮座する装甲車が目立つ。高い壁で覆うべきところをいかにも貧弱そうなフェンスで囲っていることも含め、枚挙にいとまがないとはこのことだ。

 カードキーで兵器廠の区画(これだって宿舎レベルに小さい)に入っていく三人の兵士を、オルガはハンドルから手を放すことなく見据えている。彼らは武装しているものの、きっと有事に即応できはしないのだろう。海を見渡す――という体でフェンス前に停車するこちらをちらとながめたきり注視しようともせず、背を向けたのでは。

「俺たちが何も考えてないってか?」

 彼の皮肉な物言いをクロトが鼻で笑う。もちろん、オルガのそれが反語だと知っていて。

 移動用の小型車は四人乗り。

 隣席の様子をうかがう。そこには、つい先ほどまで運転手だった彼女が深く沈み込むように腰かけていた。苦しげな寝顔は、覚醒がまだ遠いことを明確に突きつけてくる。

 艦への補給に気を取られている兵士たちは、これが誘拐の現場だと知るよしもない。

「実働的にはそろそろ交代ですし」

 なんて適当な申告で自分たち三人を外へ連れ出したシアは、そのまま足取り軽く運転席へ乗り込むほどには気力があった。それが今や、間違ってもハンドルを預けるべきではない男たちの中でぐったりとしている。

 安定剤を半ば強引に飲まされたから。

「俺たちのこと本気で同じだと思ってんの……」

 答えは返らない。白い首筋に滲んだ汗を雑に袖で拭ってやってもわずかな身じろぎだけがある。これは、人間の反応。自分たちはどうだろう。シアの体調は二の次に、きっと本心から休息を取らせようとした彼女を脅しに使おうとしている。

 休息。

 このフェンスの、極論この宇宙の内側にいるうちはそんなものは無意味だ。今や火の粉はどこにでも飛んでいって、明日には自宅が消し炭になるかもしれないと小さな子どもでも知っている――なんてどうでもいいことはともかくとして、休んだ気にならないのは事実だった。規模はどうあれ、ここは元いた施設とほぼ同じ。

 こうして空を見上げると視界の隅に棘が生えているところなんて、とくに。

 触れてはいけないものは、常にこの身を、ひいては小さくて狭い世界を取り囲んでいた。

「ここから出るにはどうしたらいいと思う」

 曖昧だった作戦について改めて投げかけ――しばらく返事がなかったのは、それがふたりへの問いかけだとわからなかったからかもしれない。ややあって彼らは怪訝な顔で振り向き。

「そりゃ、まずは武器の調達でしょ。ナイフとかそのへんの」
「ふーん。銃じゃねーんだ」
「残弾とか気にすんのめんどくさい。刃物ならサクッとやって終わりだしね」

 クロトは「邪魔するやつらをさ」といたずらっぽく笑って拳を振ってみせた。それはオルガの顔をかすめ、彼の方の拳がクロトの脳天に落とされる結果になり。

「金だろ。いちばん確実なのは」

 ふざけんなこの野郎の前置きとともに繰り出される反撃を手のひらでやすやすと止めつつも、オルガは顎で兵器廠を示す。

「あいつらも好きで軍人やってるわけじゃねぇ。金のために働いてんだから、適当な額さえ掴ませたら後は見て見ぬふり、ってな」
「そういうのって怒られねーの」
「今こっちには人質がいるからな。それも言い訳にすれば大抵通るだろ」

 オルガが身を乗り出して覗き込む先では、シアがようやく目を覚ましつつあった。ぼんやりとして意識は浮上しないままだが、いくつかの視線が自分に注がれることはわかっているらしい。不思議そうにこちらを向くのに答えて軽く頷いていると「お前は」の追及が飛んできた。

「シャニはどうなんだ? お前なら何を使うんだよ」

 俺は、と返そうとした答えは手の中にない。ならばと空隙の目立つ体内を探し――しかし目的のものはすぐそこにあった。

 話題をわかっているのかいないのか、とにかく黙ってこちらを待つシアのずっと向こうであの日のように揺らめくもの。

 それは海を歪めていた。

「……火だな」

 水平線すら消し飛ばすほどの炎なら、こと足りる。

「あちこち燃やしてやんだよ。そうしたら俺たちに構ってる余裕もないだろ……その隙に出てく」

 ここは油と、ついでに脂の塊がたくさん揃っている場所だ、きっとよく燃えるだろう。

「いいかもね。派手に燃えたら楽しいし」

 機嫌が戻ったらしいクロトは「アリーシアは?」と振る。

「こんなつまんないとこ出るには何がいると思う?」

 何が、と、小さなおうむ返し。

 その次にシアがしたことは、座席に投げ出していた手で俺の手を握ることだった。やっと定まる視線はこちらを見ている。ゆったりとした瞬きは、暑さの中で見つめるにはいちばん穏やかな色。太陽とは真逆の。

 そこにあるのに空の器を思わせる目で、やがて。

「車と、みんな」

 熟考の末の端的な返答は、なんともない平坦な表情で紡がれる。

「車は置いとくとして、俺らか?」
「ひとりじゃきっと、何もできないもの。それに、どこにも」

 聞き返したオルガへ送られるはずだったことば(その目はこちらを見たままだったが)はふっと途切れ、シアはそれきり黙りこくった。読んでいた手紙が途中から燃え落ちていたかのように、中途半端に。

 そうさせたのは、時刻など構わずあの薬を飲ませた俺たちか。継戦能力のためとあんなものを与えた軍か。

 それとももっと上、具体的には今も頭上にどうしようもなく横たわるものか。

「どこにも、ねぇ」

 シアの考えをおそらくは正しく汲み、そのうえでオルガは皮肉に唇を歪めた。

「出たところでどこに行くんだって話だよな」

 運転席に居直りながら。

 オルガも、舌打ちして軍服を拾おうと屈むクロトも――ここにいる三人とも、すべては夢物語だと知っていた。武器も大金も、火種だって手に入る可能性など万にひとつとありはしない。そうなるようにできている。ここはそういう場所で、自分たちはそういう存在。

 唯一どちらでもなかったシアは今、このとおりだ。

「なぁ」

 呼びかけて、頬に触れて、ようやく再び目が合う。

 きっと彼女は死の棘に触れたのだ。ちゃんと人間だったはずのシアがこうなるに至る理由としては十分だろう。

 つい先ほどまで元気だったシアは、ただ眠っているのか。それともすでに元の彼女は血を流しすぎて死んでいて、こうしてすとんと表情の抜け落ちたシアが本物として居座り続けるのかもしれない。

 前者ならいい、と思った。話が早くてシンプルで、なおかつ人間を夢から引きずり出す方法を大昔に聞いたことがあるから。

「起きろよ。シア」

 だから、緩く閉じる唇へキスを落とした。さっきのように薬を含んではいないし、自分は王子でもないけれど。

 手のひらを返し、シアの手を握り返す。柔らかくて白い指先がほんの微かに跳ね、反応はそれきり途絶えたかのように思えて――それでもいい、とも思った。

 ただ眠っているだけなら、待っていればいずれ目を覚ますのなら。

 せめて海の見えるところへと、この手を引いたシアが戻るならどれだけでも待てる。

「戻ろうよ。何か飲みたいし」

 クロトが言い出したのを機に、オルガは車を反転させると元来た道を引き返していく。エンジン音とともにフェンスも海も遠ざかり、またしばらくは見られなくなる。

 ――そちらを振り返ったのは惜しさではなく、かさ、と乾いた音が聞こえたからだ。

 そこにはたった今タイヤに潰されたらしい枯れ葉色のかけらが散らばっていた。海風にさらわれて、砂と空気に混じって、溶けるように姿を消していく。

 いちばんいい終わり方が、そこにはあった気がする。だって、あの日拾った抜け殻は施設に持ち帰れなかったからそこらに放り捨てて片づけた。そんなつまらない結末をなぜだか今でも覚えているから。

 

ランダム単語ガチャ No.4433「有刺鉄線」

 

2023年9月9日 Webイベント「ジュゲムジュゲ夢 vol.8」イベント内企画 テーマ縛りプチオンリー「ひと夏の思い出」にて展示