痛み

 度々見る光景、それも窓の向こう。夢ではないと確信できたのはつい先日のことだった。

 薬の効力が切れ、部屋への通信は切られ、神経系が焼き切れ――これは錯覚だが。掠れる視界と薄れる意識の中で、聞こえるはずのない涙声。

 経過観察する者しかいない窓を視線だけで見上げれば、アリーシアが白衣のひとりに詰め寄っていた。大きなファイルを胸に抱いて、唇は焦ったように動きを止めない。

 その内彼に何を言われたのかそれはぴたりと止まり、うつむき、目元を拭い。

 アリーシアがあの男たちに何を懇願していたのか手に取るようにわかる。

 わずかにひしゃげた床板を気の向くままに殴りつけた。

 腹立たしい。

 ***

 その苛立ちを投げ出す機会はすぐにやってきた。

「そちらの処理は終わりました。後はパイロットとの調整ですね、個人の反応速度を……え? それはだめですよ、反射は個人差ですから……」

 居住区を出てすぐ、廊下の角から漏れ聞こえる声がある。大方アリーシアが通信しながら移動しているのだろう。交戦続きの今は整備にも開発にも十分時間を割けない。出撃するだけの自分たちには関係のないことだが。

 そう、元々こちらとあちらに譲歩も融和も、あらゆる干渉などいらない。

 彼女はそれをわかっていない。

「切れちゃった……あ、オルガ」

 壁面を支点に、角からやってきたアリーシアがやっと気づいて立ち止まる。

 潤む目、赤くなった瞼、生気のない声。

 それが誰に向けられたのか。

 なぜこうなったのか。

 全部、知っている。

「どうしたの……」
「同情か?」

 聞こえたのは息を呑む微かな音だけ。

 アリーシアのすぐそばの壁へ思いきり拳を叩きつけた。この程度の衝撃で、新造艦はいちいちセンサーを作動させることはない。

 ここにいる力の弱い技師ひとり欠けたところで、それが悪意によるものであったところで、何かが変わることも。

「見えてんだよ、毎回! 俺たちが死にかけるとお前もそうなるのか? それとも哀れんでるのか? 偉そうに」

 細い喉が鳴った気がする。プラスもマイナスもない透明な表情に無言で見つめられることすらささくれ立った神経を逆撫でした。

「なぁアリーシア? お前は俺とは違うだろ?」

 額が触れそうになるほど距離を詰めても。

 悪辣にことばを投げつけても。

 何も響かない。何も返ってこない。

 まるで彼女からも失われたものがあるかのように。

「逃げようと思えばできるだろうが……」

 こんな不毛な戦場など捨てて、望めばどこへだって行けるくせに。

 ここにいる誰もがいないところでだって生きていけるアリーシアが、憎かった。

「持ってるやつが何を」
「うるさい」

 ぱちん、と、それは気の抜けるほど力ない衝撃だった。

 アリーシアを脅した腕を、彼女自身の小さな手が平手で押しやっている。その気になれば振り払える横槍を、どうしてもそうできない。

 目だ。

 アリーシアの目がいっそ射抜くような真摯さで見上げるから。

「わたしとオルガは違うんでしょ。だったら、わたしが何を見てどう思ったってオルガには関係ない」

 ――もう十分だ。早く三人に処置をさせてくれ。

 あのとき、そう言い募っていた真剣さで。

「……あなたたちが苦しいとわたしも苦しいの。それの何が気に食わないの? ほっといて」
「……くだらねぇ」

 返すことばが、震えて落ちる。

 当たり散らしたことへの報復は、暴力よりも酷く傷を抉った。それをしたのがアリーシアだという、ある種グロテスクなコントラスト。

 穏やかなばかりだと見くびっていた相手は、他者のために傷つく狂人だった。

 理解ができない。

「聖人気取りかよ」
「そういうオルガは悪者のつもりなの?」
「うるせぇ」
「ごめんね、お節介で」

 やっと見せた笑顔すら、そら寒い。

「同情とかじゃないから、大丈夫だよ。わたしは、わたしが悲しいときにだけ悲しむから」

 また。

 またしても、胸がひずむ。

「あ、そうだ。あんまり乱暴しないでね。びっくりしちゃう」

 振り上げる理由をなくした手を指差したのが最後だった。アリーシアは床を蹴って自室へ向かって去っていってしまう。

 目の前で行われた行為に何ら思うところなどないのだと、言外に示して。

「……ここにはやべーやつしかいないのかよ」

 吐き捨てたのは負け惜しみに似た。

 彼女が自分たちに向ける感情の名前がわからない。あの笑みの理由が、小さくなる背を追いたくなるわけが。
 心臓のあたりが、刺したように疼く。

ランダム単語ガチャ No.2967「痛み」