イフのさいはて

 迫ってくる機体も、揺れるコクピットも、全ては仮想空間でのできごとだった。シミュレーターの中でシアが殺されることはない。傍から見れば真剣な彼女の挙動は、しかし恐怖に突き動かされてのものだ。上手くできなければ艦の皆もろとも体を蒸発させながら死んでいくのだと教え込まれ、叩き込まれて。

 文字通りの命がけ。

 そのはずだった。

 ある日訓練から帰ってきたシアは、待機室にひとりでいたこちらを見るなりこう言い出した。違和感に強張った瞳のまま。

「シャニは戦闘、怖くないの?」
「その逆、楽しいね。思い切り暴れられる」
「そう。わたしね、今日は怖くなかったよ」
「そこのモニターで見てた。全機落としてたろ」

 機体を機械ではなく人間として見ることを止められず、シアの命中率は二割を下回ることが常だった。撃墜数は目も当てられない。それがここのところ、見違えるように改善している。

「……撃てた」
「へぇ」

 戸惑う顔は、拒絶反応なのだろう。

 それも今に消え失せる。

 自分が同じ立場のときはどうだったのか、そのあたりの記憶は抜け落ちているけれど。

「よかったじゃん」

 ――はっきりと聞こえた息を呑む音の後、諦念とともに「そうだね」と、それだけが返された。

 ***

 見下ろすと、自室のベッドに横たわる体は少し痩せたようだった。骨肉は薬に慣れるとともに必要な栄養を拒絶する。衰弱と引き換えに得られるものが最適化された兵士だとして、それが実戦投入されるに相応しいとは思えない。命令に忠実で、ためらいなく敵を撃てる人間がこうもガタガタで何の役に立つというのか。相手を皆殺しにするためだけの人手が、そんなにも。

 ――そこまで考えて、止める。こんなことはいずれほかの誰かが結論を出す。それに、わざわざここに来たのは無駄に頭を使うためではないのだから。

「寝てんの」

 シーツの余白に陣取り、後ろから腕を回して抱き寄せた。体温が感じられることに安堵したのは、暗い部屋にほの浮かぶ白い頬に死を感じていたからだ。戦死ならば見ることのない死に顔の。

 ややあって、ふと身じろぐのは彼女の方だった。

「……や、だ……誰……?」
「俺」
「シャニ……? 何でここに」
「部屋のパス教えたのシアだろ。ついこの前」

 腕の中で難儀してこちらを振り向いた表情には、そんな覚えはないと書いてある。

 生の気配が音もなく彼女から消え失せている証拠だった。

 ここから奇跡でも起きて五体満足で生き延びたとしても、自分もシアもすぐに命を削り尽くして死ぬ。こちらはもともと選択肢などなく、彼女は半ば不意打ちのようにこちら側に引きずり込まれて。

 入口はともかく、末路は同じ。

 それが嬉しい。

「なぁ、怖い? 苦しい? 死にたい? 恨んでる? 殺したい?」
「そんなこと言わないで、聞きたくない」
「なんにもわからなくしてやるよ」

 懐に隠していた、封の開いた薬瓶を取り出してみせる。ほんの数滴分残されているだけだが、何の調整も受けていないシアにならば十分だろう。

「可哀想にな」

 ふと口をついて出たのは紛れもない本心だった。泣きそうになりながら、逃げることもできない彼女が。

 こんな男なんかと同じになっていくシアが。

「生きるのも死ぬのもひとりでできないんだろ。俺たちといっしょだ。いっしょにされたんだ」
「違うよ」
「違わねぇ」

 引き結ばれる唇に瓶を押し当てただけで、つうと滴が伝って広がる。焦って跳ねた肩は薄く、片腕で押さえ込むのは容易かった。

「俺の薬。キツすぎて頭がおかしくなるかもな? けどシアにはいいことづくめだろ」
「……わたしは、わたしのままがいい……」
「苦しいお前はさっさと殺して楽になれよ」

 少しだけ艶のなくなった髪を撫でる。いわゆる普通の人間には、これまでの誘いは死神のものと変わらないのかもしれない。だから彼女は頑としてこの手を取ろうとしないのか。

 そんな態度は、もう粉々に崩れかけているが。 

「死にたくない。怖いのも痛いのもやだ……もう、耐えられない、ここにいたくない。でもみんなのところにいたい、シャニと離れたくない」

 だから、と、継がれたことばは錯乱に似た。

「シャニが、わたしを壊してよ」

 最後まで自分で死ぬことを選びきれないほどシアは弱かった。

 それが正しい世界にいたはずなのに、なぜ彼女はこうして目の前にいるんだろう。

「……ん。目、閉じてろ」

 何も、わからなかった。きっとシアにだって。

 だからこそ、できる限り思いつく限り優しく唇を押し当てた。舌で流し込む薬が、今までただの女の子だった彼女を一瞬で葬る毒になればいいと――記憶通りならば短いこの人生で初めて祈りながら。

「さよなら」
「おやすみ」

 今度目を覚ますときは、シアではない誰かになれるようにと。

 確かに抱きしめているはずの彼女にこの手でとどめを刺せたのに。

 なぜだか、空しかった。