百年続くもの

 手を引かれて帰り道を歩くのを邪魔するものは何もない。それなのに考えがまとまらなかった。頭の中が真っ白になるとはこういうことだ、そう実感できるほど、思考は文字にも絵にもならない。

 ボンディングって、何なんだろう。

 センチネルとガイドの間に結ばれる、契約のような何か。そんな、説明書じみたお決まりの文言しか知らない。まさか婚姻届に等しいものを役所に提出するわけがなく、それならどんなことをもって契約したと言えるのだろう。昔クリアしたゲームに出てきたシーンみたいな? 片方の血を混ぜたワインをもう片方が飲む――なんて、想像するだけでめまいがする。あんまり、非現実的で。

 とにかく、頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。どこをどう通ってキョーヤの家へたどり着いたのか、お邪魔しますを言ったかどうか、そんな数秒ごとの記憶すら定かではなくなって。そうして我に返った、とぎりぎりジャッジできるころにはふたりでキョーヤの自室に上がっていた。振り返れば、いつもと同じ光景がある。

 後ろ手に閉じられる扉。

 ――めまいを通り越して気を失いたくなる。

「みどり」

 短く促されて、ぎくしゃくとベッドに腰かけて。どうしよう、と会話にならなくなるひとことを飲み込んで無言でその通りにしてしまったところに、ふと視界に飛び込んでくるものがあった。

 白いシーツの隅っこ、クリーム色が目に優しい塊。耳、手、お腹、全てが丸いそれはわたしの家からここへ居候しているクマのぬいぐるみだった。つぶらな丸い目と目が合うと、この子を抱き締めたときの気持ちよさが何となく胸の内に思い起こされる。

「何日かぶりだね」

 ふくふくの頭をそうっと撫でて、膝へ抱き上げる。ほんの少しだけ落ち着いたのを見ていたのか、キョーヤも隣へ座った。きい、と微かに軋むスプリングを最後に、物音はなくなる。

 代わりに、大きな手のひらが伸べられた。頬に触れるのは優しい温度。降りてくるのは穏やかな視線。

 何も変わらない。

 いつも通り。

 ――そんなことは、ない。わたしたちの間にはひとつの予感があった。

「……みどり」
「……うん」
「始めよう」

 これだ。

 今から何かが、決定的に変わるという確信。絶対にそんな素振りはしたくなかったというのに体は震えて、それをきっかけに視線を落としてしまう。

 大丈夫だと、わかっているはずだった。目の前にいるのはキョーヤなのだから。わたしのことが大好きで、いつも優しくて、何があっても大切にしてくれる男の子。

「……キョーヤ……」

 わかっていて、それでもだめだった。完全にベッドに乗り上げて、少しだけ距離を取って。

 自分が情けなくて目を合わせられない。

「痛いの?」

 脈絡はない。ことばが返るには少しの間があった。

「ボンディングのことだね」

 何度も頷いて、キョーヤへ答える。

「ほんとに、わからないの。今から何するの? 我慢できないくらい痛いことだったら、上手くできなかったらどうしよう」

 クマを抱く手に、力が入る。それとは逆に、妙な脱力感もあった。とてつもないものを前にして、立てなくなるあの感覚。

「わたしたちにはきっと大切なことだから……だから、キョーヤとしかしたくない。キョーヤじゃなきゃやだ。でも、なんにもわかんないよ、怖いよ」

「……泣いてるのかい」
「泣いてない……」

 正確には、泣きそう。触れられたままの頬に涙が伝わないように祈るのを、同じくベッドに上がったキョーヤは真正面から見つめている。正座しようとした脚を崩して、その間にわたしを収めて。

「先に謝っておくよ」

 両手が、肩に触れる。

 そうして静かに告げられる、それは宣言だった。

「止めない」

 ――思わず顔を上げたのは、頑なな決定事項を伝えるのにはそぐわない柔らかな響きを感じたから。

 その通りに、キョーヤの目はわたしを見ていた。ここから逃さないためではなく、わたしに一字一句残さず伝えるために。

「約束する。絶対に、痛くない。君が苦痛で泣くようなことにはしない。今までといっしょだ」
「わたしたち、どうなっちゃうの?」
「互いのただひとつの存在になる。永遠にね」

 気の遠くなる、そんな話を。

「そのために、こういうことをするんだよ」

 前髪に降りる、音のないそれがキスだと、少し遅れて気づいた。

「たくさん、何度も。僕たちの境目がなくなるまで。それがボンディングだ」

 目尻に、頬に――ゆっくりと輪郭を確かめるのに似た行為。

 恥ずかしい、怖い、嬉しい、わからない……喉に気持ちが詰まって出てこない。真綿を包む緩やかな抱擁を、同じようにキョーヤへ返したい、けれど。

 何も、できない。

 胸の奥から溢れて止まらない熱が、思考全てを溶かして焼き尽くしていくようで。

 こんなのは、知らない。こんなに、怖いくらい熱くて、それなのに愛おしいものは。

「……手を離して」

 ふとクマを見下ろされて、何とか首を横に振る。この子は今手元にある、唯一の日常風景だった。手放すことは、ぶら下がった崖から手を離す自殺行為同然の暴挙で。キョーヤは呆れたように頷いて、それでも笑って許してくれる。

「わかった。今日は、その子といっしょで」

 でも、と、次ぐひとことはわたしの耳元でそうっと囁かれた。間違ってもふわふわの耳の方には届かないようにと、小さく。

「いつかこういうことをふたりきりでできるように、たくさん練習しておかないとね」

 少しの笑みを、そしてそれを遥かに上回る確信が含まれる。キョーヤの中では決定事項なんだ。どきどきして心臓が砕けてしまいそうな、いけないことを。

「たくさん、するの……?」
「そうだよ。ボンディングは一度きりでも、いつだって僕は君とこうしていたい」

 肩甲骨を伝って、背骨。キョーヤはわたしとの間にクマを挟んでぎゅっと抱き寄せてくれる。深い呼吸がすぐそばで落ちていっても、目で追うことすらできない。それくらい近くで。

「みどり。君も」

 空いた片手が、無造作にワイシャツのボタンをふたつ外した。晒されたキョーヤの喉元は白くて、しっかりとした厚みへ続く首筋との対比が綺麗なアンバランス。なぜだか見とれてしまうわたしへ求められたのが何なのか、さすがにわかってしまって。

「うん……あの、あのね、キョーヤ……目、閉じて」
「どうして。君がキスしてくれるのを見たいのに」

 とろけてふわりと形を掴めないほど、低くて甘い声。そんな風にお願いされたらわたしの恥ずかしさなんて二の次にしてしまいたい。

「……ん……」

 代わりにときゅっと目を閉じて、くっきりと浮かんだ鎖骨へ唇を寄せた。温かな硬さにすら鼓動が跳ね上がってしまう。こんなところへのキス、考えたこともなかったからかもしれない。キョーヤに導かれるがまま、知らないことへ、知らない方へ進んでいく。

 怖くないのは、キョーヤが抱きしめていてくれるから。

「……そう。いい子だね」

 優しく、髪を撫でる指がある。

「僕も、同じところにしたい」

 ぐ、と体重をかけられた先にはシーツが広がっている。気づけば緊張がほぐれ――を通り越して力の入らない体は、あっさり仰向けに押し倒されてしまった。

 目の前では、天井を背にキョーヤがわたしを見下ろしている。

 背を抱く腕はそのままに、ふたり眠るときと変わらない、温かさを帯びた視線で。

「キョーヤ」

 包んでくれるのが嬉しくて、優しく見つめてくれるのが嬉しくて、伝えずにはいられなかった。

「大好き」

 答えは、細められた目が告げた。

「みどり」

 大きな手のひらがクマの両目を一度に覆い、わずかに横へ避ける。その下で潰れていたリボンもボタンも外してしまったキョーヤは、ゆっくりとわたしの首筋へ唇を落とす。
 ちくりと針で刺す痺れがあって――きっとそれが意識の最後。

 もっとこうしてほしい、だなんて、恥ずかしいことを正直に言えた自信はないから。