喉元から離れていったのが温もりだとわかった瞬間、目を開いていた。いつの間にか眠っていたのか、それとも意識があいまいになっていたのか、どちらなのかはわからないけれど。
キョーヤは隣に横たわって、身を乗り出していた。その背後には隙間から黒を透かすカーテンがある。よほど遅い時間なのだろうか、窓の向こうから何の音もしない。
「みどり。もう起きるの」
そちらへ寝返りをうちながら答えた自分の声が、酷く掠れている。戸惑って見つめても、いちばんに返ってきたのは微笑を伴う視線だけだった。
乱れたタオルケットを直してくれる手は、熱い。
「ずっと、僕を呼んでたね。ここにいるのに」
「……キョーヤも、いっぱい呼んでくれたよね。嬉しい」
あの時間にはたくさんのキスが、その間ずっと抱きしめていてくれた腕があった。優しいのが温かくて、温かいのが幸せで、そう伝えたいのに浮かんでこないことばがもどかしくて。できることといえば、名前を呼ぶことだけだった。
「キョーヤ」
――たったひとつ、誇らしい。この音の響きなら、何がどうなっても口にできる自信があるから。
「がんばったね。怖かったかい」
「ううん、ちっとも。キョーヤ、ずっと優しかったもん」
褒められた面映ゆさに一気に頬が熱くなる。抑えた室内の明かりが赤くなるのを隠してくれたなら、少しだけ安心。
「うん」
頷き、撫でられた髪はいつの間にか解けていた。それに気を取られている間に、キョーヤはベッドを降り始めている。
「……何か、持ってくる。待ってて」
離れていく影を追いかけたくても、妙に全身に力が入らなかった。諦めて仰向けになって、自分の家の次に見慣れた天井を眺める。
優しい手。声。眼差し。
何も変わらないものがある。
それが嬉しかった。
お腹のあたりに転がるクマを抱き寄せ、この子にも感謝を伝える。弱気になったわたしを助けてくれた柔らかい塊は、ずっと腕の中にいて。だからこそ、ふと。
「今度は、キョーヤとも手を繋いでいたいな」
なんて考えてしまった。
「あーっ」
思いっきり両手で顔を覆う。クマがお腹からころりと転がっていっても拾い上げる余裕すらない。
今度。
次、また同じことが起こるなんて?
――きっと大丈夫だという自信と、それはそれとしてどきどきで心臓がもたないという予感がある。
「百面相」
いつの間にやら戻ってきていたキョーヤが笑うタイミングでようやく我に返った。
「教えてよ。そんなに楽しいことがあったの」
「楽しい……というか、嬉しいというか」
「そんなに元気なら何も心配いらないね」
そうして差し出されたものを前にして、もっと元気になる。冷たくて気持ちいいマグカップに三分の一ほど注がれたはちみつ色のりんごジュースは、キョーヤがわたしのために用意してくれていたもの。
「ありがとう! ……んー、おいしい」
「少し、眠って。そうしたら降りておいで」
「どうして? 眠たくないよ」
「……みどりは甘いものを口にするとすぐうとうとする」
「そうかなぁ。でもキョーヤがいないなら寝たくないな」
目覚めのよさをアピールしたくてうんと伸びをする。そのとき、自分が袖を通しているものが気になった。学校から直接ここに来たわけだから、制服を着ているはずなのに。
これは、さらりと肌触りのいい黒の長袖。見覚えがある。
今着ているのはキョーヤのパジャマだった。心当たりは――もちろんない。
「あれ?」
「……覚えてないのかい」
だから眠れと言ったんだよ君は疲れてる、ベッドに片膝で乗り上げながらそうため息をつくのがやけに遠くに感じた。多分、想定外のできごとに出くわした衝撃で。
「これくらいで済んだと思ってたわけだ」
不意に頬を包んだ両手に引き寄せられ、キョーヤの唇がわたしの唇を拭っていった。わずかに舌先が、濡れた音を立ててたどったのを薄いところで感じさせられ。
甘い、と、ほんの少し伏せられたまつ毛が告げた。
「僕が教えたことをよく思い出すことだね」
半ば強引にわたしを横たえて最後、なぜかパジャマ越しにお腹にそうっと触れて。キョーヤはまたしても出ていってしまった。自分でもわかる、ぽかんと間の抜けた表情で仰向けにされたまま止まった思考に急いでエンジンをかける。
キョーヤが教えてくれたこと。センチネルとガイド、ボンディングのことだ。ここで行われるのは、痛くないことで、大切なことで、お互いの輪郭がなくなること。
輪郭。
お腹。
「……あ」
疲れている寝ていろなどなど言われたのが不思議なほど俊敏に立ち上がれた。
全身が一気に熱を帯びていく錯覚がする。
肋骨の上に、おへその横に緩やかに落とされたキスを、覚えている。
お腹どころではなかった。
キョーヤは確かにわたしの全てに触れた。
「ま、まっ、待って!」
「異論は認めないよ」
階段のあたりから反論が飛んでくる。それでも追わないわけにはいかなかった。一度よろめいたのは今まで横になっていたせいであって、間違っても種をまくように全身に贈られたキスのせいではない。と思いたい。丁寧にハンガーにかけられた女子の制服が視界に入ってからは混乱に拍車がかかってもう何がなんだか。
あんまり、恥ずかしくて。それと、ほとんど記憶がないのがもったいないのが少し。
「異論とかじゃなくてその、確かめたい……」
「へぇ、それなら詳細に言い聞かせないと」
「ざっくりで、ざっくりでいいからー!」
面白がる声を追って部屋を横切り――またしても思考に横槍が入れられた。
応接室のものに近い、木製の机。そこに開かれていたのは一冊のノートだった。鹿鳴館から持って帰ってきて解読を続けていたのか、頁の隅にはまっさらな付箋がつけ足されている。
一見してはまともに読めなかった、誰かの名とメッセージ。
「……キョーヤ、大変! あ、パジャマの件もだけどそうじゃなくて……!」
錯乱している場合じゃないと深呼吸し、意地悪するキョーヤを改めて追いかけ階段を駆け下りた。
変わったことは、あの見開きの中にも存在している。
「ノートの字! ちゃんと読めるよ……!」
