傷口に赤い糸

 それは前置きや世間話が挟まることなく、単刀直入のお手本のような流れだった。

「お前、ガイドなんだよな?」

 かたん、と、入り口の方から軽い物音。ひとりが図書室を出ていく姿が視界から消え去る。

 無音。何も、返せなかった。

 ガイドであることは秘密ではないのだから、言い当てられたところで肯定すればいい。そうできなかったのは彼の様子に圧倒されたからだ。声は最小限に抑えられているものの、内から滲む必死の表情を押し留めることはできない。

 文字通りの、生死の境がそこにはあった。

「俺のこと、知ってるよな。どこかの教室から見てた……」
「どうして……」
「俺の能力は目に来たんだ。数ヵ月前、突然で……まだ実感がない。自分がセンチネルだなんて。誰かの声が苦痛を和らげるなんてさ」

 彼が身を乗り出すと、胸ポケットの中に少し傷んだ生徒手帳が収まっているのがわかった。きっと三年生なのだろう。そう推測したのと同時に、短く刈り込んだ頭がふっと下げられる。まるでお辞儀をするように。

「急で悪いけど、玖珂。俺のガイドになってくれ」 

 ――そのことばを聞いて、咀嚼して、呑み込んだ瞬間席を立っていた。彼の遥か後方の棚に収まっているパンフレットには確かこう書いてある。

「センチネルは一生のパートナーとするガイドと契約を交わします」

 その契約をすることがボンディングだという。

 わたしと、この、あまり知らない先輩。

 理解が、思考が鈍っていくのがわかる。想定の斜め、さらに斜め上を行く話で。

「もうあんな苦しいのは嫌なんだよ」

 彼が立ち上がり、机を回り込んでくる。まさか追われるとは思わなくてとっさに走り出すこともできない。わたしよりもずっとずっと高い背が、長い影を落とす。

「センターにはガイドの職員がスタンバイしてる。だから俺は運ばれてすぐ処置してもらえたんだ。でも逆はない、あのひとたちが俺たちのところに来ることはないんだ。わかるだろ?」

 まくし立てる勢いのまま踏み込まれると、引くしかない。そうして、背後には本棚が立ちはだかっていることに気づかされる。

 センターのガイドが動くべきではないことはすぐにわかった。西にかかりきりになっていては、東の救助要請に出向くことが遅れてしまう。常に中央にいるのが最善策。だからこそ、センターは常に協力者となるガイドを募集しているし、どこかへ派遣することは滅多にない。

 このひとの恐怖がわかる。それどころかわたしへ伝染していく。まだセンチネルの自分をコントロールしきれない今、いつゾーンに落ちるか。手遅れは死につながる。

「……キョーヤ……」

 ――いつの間にか、その名前を呼んでいた。呼ぶというよりはつぶやくのに近い。死角になった受付はおろかその辺りのテーブルにも届かないほどに。

 こんな状況に至って、それでも真っ先に想う相手はこのひとではなかった。センチネルの苦痛、そしてそれに対する焦燥は共感になってそばにいるわたしに流れ込む。わたしがそうしているのではなく、ガイドの強いエンパシーのせいだ。相手が誰であれそうなるのは、キョーヤとこの先輩が証明した。

 だからこそ、拒みたかった。力になりたい気持ちはある。それでも、怖かった。ボンディングなんて知らない。その後どんなことが待っているのかも。名前も知らないこのひとと、できるはずがない。

 たった一度のことなら、キョーヤへあげたい。

 そう伝えることばを、わたしは失ってしまった。はっきり断るための声は、喉が震えて使いものにならない。助けてほしいのに、連れ出してほしいのに。

 気づけば周囲は無人と化し、いよいよ助けを求める相手はいなくなる。返答を焦る彼は何を考えたのかわたしへ手を差し伸べた。こめかみに汗が滲むのが見えるほど、近い距離から。

「玖珂」
「みどり」

 ふたつの声は、ぴったりと重なり。

 ――宙を舞ったのは、この場の誰よりも体格がいい目の前の彼だった。

 ***

 わたしより力強くて、それでも屈強とまでは言えない片腕。どんな技術を使われたのかとにかくあっさりと投げ飛ばされた先輩は、憑きものが落ちたような夢から覚めたような表情でわたしとキョーヤを眺めた。

「次はないよ。消えてくれる」

 こちらを見つめながら言い捨てられたそれに、先輩は床に尻もちをついた姿勢を改め深く頭を下げると走って図書室を出て行く。わたしはその姿も足音も視界の中心に収めることはできなかった。

 キョーヤが、視線でわたしを縫い留めている。

「……君のことを考えてた」

 激情でも悲哀でもない、雪のように静かな気持ちが胸の上に降りてくる。

「いつも通り、ここにいるだろうと。そうしたら僕の名を呼ぶ声がした。怖がってたね」
「聞こえたの……」
「どこだろうと、君の声なら聞こえてた」

 そうっと髪を撫でる手は、ことばそのものだった。自分の両手がきつく喉元で握り込まれていることにようやく気づいて、それでも引き剥がせない。

「……わたし、あのひとのこと助けたかったの。でも、だめだった。ボンディングをしてほしいって」
「それでいい。君が他のセンチネルに流されても僕が許さない」
「でも苦しそうだったよ。こんなの、いいのかな……」
「……君は、まだよくわかってないみたいだね」

 ふと、背中をぽんと叩く手。いつもわたしに優しく触れてくれる手だ。

 それが次に取った行動はわたしを性急に胸へ抱き寄せることだった。

「あのとき断言しておけばよかった。よく聞いて、君はガイドだ。今確信した」

 大好きな声が、今は固く、ただ事実を事務的に言い含める。耳元に突きつけられる冷たい響きを、それでもひと文字残らず受け取ろうと神経を研ぎ澄ませた。キョーヤは、必要だからわたしにそう伝えようとしている。

 俯き、さらりと流れる黒髪の微かな音さえも感じられるほどの沈黙の後。

「ガイドは希少だ。ほとんどのセンチネルはそれを知ってる。そうでなくても手元に置きたがる。どんな手を使っても自分のものにしたくなると」

 その手段がボンディング。未だ姿のわからない行い。

「……そういう本能がある。ガイドはその逆、誰かのものになりたがる。だから逃げられない、要求を拒めない……それを良心ゆえの考えだと思い込もうとしても無駄だよ」
「……そんなの、やだよ……」

 得体のしれない薄ら寒さが、爪先からお腹へ這い上がってくるようだ。怖くて、逃げたくて、ワイシャツに顔をうずめる。

 甘かった。

 ガイドというわたしは、秘密にして隠しておくべきものだった。そうでなければ今後何度でもこういうことが起きる。助けを求める手を、振り払わなければいけない。それで済めばまだいい方だ。永遠に、誰かに追われる夢を見ることになるのだと、キョーヤは言っている。

 鹿鳴館に集まっていたかもしれないセンチネルたちの想いがやっと飲み込めた。求めた覚えのない力、完全にゾーンに落ちるかもしれない恐怖、出会えるかもわからないガイドへの渇望。

 それは、そっと体を離したキョーヤにも当てはまることだった。わたしだけを見ている目、そこにあるのが温かさばかりではないことはとっくにわかっていた。ここに来てくれるまでの焦り、わたしを見つけてしまったセンチネルへの苛立ち、これからへの思案。

「もうこんなことにはさせない」

 聞いているわたしがはっと背筋を伸ばす、そんな真剣さを帯びた決心。

 キョーヤの両手に頬を包まれながら、半ば呆然とそのことばを聞いた。

「僕たちには必要ないと思ってたけど、考えを改めるよ。僕は君とボンディングをする」