パブロフの子犬

「跡部くん跡部くん、ほらこれ、やっと出来たの。ねえねえ」

 お昼休み、わたしが満を持して披露したのはスマッシュでもなくサーブでもなくリフティング。もちろんラケットは持ってない、わたしが操るのはサッカーボールのみ。

「たったの五回じゃねえか」
「昨日は一回だったもん、進化したでしょ」
「一回をリフティングとは言わねえ。あれはトスだ、いや缶蹴りだ」
「ひっどい」

 偉そうに鼻で笑う跡部くんは、そう言いながらとんとんリフティングを続ける。普段サッカーをしないのは同じなのにこの差は何だろう。体の軸はブレないし、プレーが片脚に偏らない。わたしといえばずうっと右脚で、しかも関節を使うことを知らないものだからぎくしゃくと壊れかけのロボットだ。この間数十秒、晴天のグラウンドの片隅でボールを上げる音は止まらない。

「すごい、何で落ちないの? どーして?」
「基本の身体能力の差だ。埋めたいなら這い上がって来い」

 得意げに言ってのけると、そのまま大きく蹴り上げる。少し奥に落ちてきたボールを勢いよく遠くのゴールに叩き込む脚さばきは、現役部員にも引けを取らない。本当に、何をやっても絵になるなぁ。

「それにしても」

 ぱちぱち拍手するわたしに、跡部くんは足元に残っていたサッカーボールを投げてよこす。

「お前は子犬だな」
「えー、どの辺?」
「親犬や飼い主にくっついて離れないところだ。そら取ってこい」

 ぱし、と、小気味のいい音を立ててボールがわたしの両手に収まった。それは取ってこいじゃないと思う。

「あれ? それで行くと跡部くんはお父さんでご主人さま?」
「やめろやめろ、そういう意味で言ってねえ」
「あはは、わかってるってば」

 でもまあ、言いたいことはわかるかも。この、「完璧」ということばが服を着て歩いているみたいな男の子からどうしても目が離せない。みんなが跡部くんに夢中で、わたしも多分そのひとり。ひとよりちょっとだけ、その興味の示し方は違うのかもしれなくて、その辺を子犬だなんて形容されちゃうけど。

「いいもん、子犬でも。子犬だから大好きな跡部くんにじゃれたくて仕方ないんですー」

 ――数拍置いて、じっとりとした目で見つめられる。「減らず口を叩くな」なんてことばが聞こえてきそう。

「開き直りやがったな」
「ねえねえ、褒めてよ?」

 ボールを持って行きがてら、跡部お父さん(怒られそうだからやっぱやめよう)に歩み寄る。「よーしよし頑張ったな撫でてやろう」なんて、天地がひっくり返っても言ってもらえないだろうけど。

「手のかかるヤツだ」

 脱力した呆れ顔をされる。そこまで言わなくても。

「御巫」
「んー?」

 ぽーん。そんな効果音がつきそうなほど軽やかに、跡部くんの手からボールが真上に放られた。「キャッチできたら褒めてやる」とかそういうことかな?

「あー、結構高い」

 構えてはみるけど、落ちてくるときの勢いが強そう。太陽の光を、目を細めてやり過ごした――から、気づけなかった。

 跡部くんが真後ろに立ったこと。

「隙だらけだ」

 突風に煽られて、サッカーボールは明後日の方向に滑るように落ちていく。その間に、跡部くんはわたしの髪に後ろから触れていた。

「鞠花」

 声を上げそうになるのを何とか呑み込む。名前を呼ばれるなんて、滅多にない。

 遅れて着地したボールの音が遠い。

「今日のところはお前に譲ってやる。よく頑張ったな」

 つぶやくような、綿が落ちるような微かな声が降ってくる。髪をすくようにして頭を撫でられて、何だか気持ちいい。

「……嬉しい。えへへ」
「だらしねえ笑い方をするな」
「はぁい」

 ようやく解放されて、振り返る。跡部くんのいつもの、余裕をそのまま浮かべた笑みが高いところにあった。

「だがな、次は俺様の番だ。俺以外にあんなことを口走れないように徹底的に躾けてやる」
「やれるもんなら」

 やってみなよ、なんて受けて立とうとしたけど、「あんなこと」って何だっけ? 聞いてみたくても、相手はすでに背を向けてボールを片づけ始めている。

「あ、そっちのこぼれたの持ってく」
「あぁ、任せた」
「すごいねえ、そんな重いもの持てるなんて」

 ボールが何十個も入った籠を軽々押していく姿は危なげない。キャスターがついているとはいえ、わたしが同じようにしたときはあんまり重くて動かしづらかったのに。

「何言ってやがる、鍛え方が違うだろうが。お前の大好きな跡部景吾は」

 愉快そうに笑いながら体育倉庫に消えていく背中を、わたしは呆然と眺めたまま立ち尽くす。

 「あんなこと」の答えは、すぐに提示されてしまった。