自室にこもることには読書のおかげで慣れていた。とはいえこの状況では読書どころではない。額に手をやると確実に熱を持っていて、頭の芯が溶け出しているかのように思考が鮮明さを失っている。
昨日の帰り道ノルンに五回ほど心配されたことが的中した。今朝のメルヒス先生の診断を経てこうしてベッドに横たわっているのは風邪のせいだ。単位は十分確保できているから授業の遅れはそこまで気にしなくてもいい。そしてその件を露と霞ませるのはノルンの落ち込みよう。
今日の早いうちに欠席を知るだろう。そして彼女のことだ、必要以上に自分を責めるに違いない。その必要はゼロなのだが納得はしないだろう。そしてここは男子寮だ。見舞いに訪れようと直接会えはしない。
先日姿を消したあの子猫をふと重ねる。もしノルンに柔らかな三角の耳があればぺたりと寝てしまっているだろう。アトリエのアイテムのストックに猫耳が残っていた気がする。そういえばこの前まで体力増強のためにヴェインが装備していたのだから代わりにノルンがつけてくれたら――。
「……悪くない……」
誰もいないのをいいことにこぼれたひとりごとが、数拍置くと途端に恥ずかしいもののように思えて性急に窓を全開にした。考えすぎるとキャパオーバーを防ぐためにことばがひとりでに外に出るようになっているらしい。などと人体構造へ責任転嫁している間にこの部屋の真下に歩いてくる影があった。
上階に位置するせいで彼らの会話は途切れがちだが、ふたり分の話し声がするのはわかる。木々の向こうからのそれによくよく耳を傾ければどちらも聞き覚えのある響きをしていた。
「だから、裏技で助けてやるって言ってるだろ」
まるで楽しむように弾む男子生徒の声。
「トニ先輩の提案は後が怖いです」
警戒心をあらわにした女子生徒の声。
ノルンだ。
「どうして?」
女子の出入りが禁止されているのは男子寮ロビーの奥であり建物の外は対象外だ。気にするべきはそこではなくノルンがあのトニ先輩といっしょにいる理由だった。喉は辛いが声を張り上げれば二人に届くだろうと窓から身を乗り出した瞬間に飛び込んできた光景に、逆に息を呑むことになる。
「どうだ、開発した新装備! これでパワーアップしてるんだ」
籠手を装備して自信ありげな彼に、ノルンは抱き上げられていた。――正常な神経を保てていたならその瞬間にここから飛び降りていたところをトニ先輩の暴挙は止まらなかった。彼よりずいぶんと小柄なノルンがぽかんと目を見開くのに構わず、その丸くなった体を易々と放り投げた。
私に向かって。
「ひぇ――」
「何を……!?」
「うわ起きてたのか?」
なぜこんなことに、そう考えるより先に両腕は彼女を抱きとめていた。狙いすまして飛ばされてくるところを胸で受け止める間にトニ先輩は笑いながら手を振って去って行く。
「待ってください! 殴らせろ!」
「物騒な病人だな! させるか!」
駆け足になる後ろ姿へ怒鳴りつけるのを、腕の中でノルンはぽかんと見上げている。それに気づいて視線を下ろして、この行為が失敗だと気づくのには長くはかからなかった。
いきなりの展開を飲み込めていない丸い目が瞬くのはゆったりとした速度。よほど驚いたためか抱きついてくる小さな両手。図らずも抱きしめ合っているかのような構図そのものがここにあった。
「あー……」
次に取るべき行動が、すぐに思い浮かべられない。
「なぜこんなことに?」
「ロビーに向かってたんです、お見舞いの品を誰かに届けてもらおうと思って……そしたら、トニ先輩がいて」
たどたどしいことばは次第に滑らかになり、しかしノルンが慌てて離れることはなかった。それをいいことに口を閉じ、続きを促す。――いつもなら私の方が瞬時に距離を取っていたはずだ。そう遅れて気づくことから察するにやはり脳の処理が鈍っている。などと結論づけるのも責任転嫁にあたるのだろうか。
「ロクシスに渡してくださいってお願いしたら、自分で直接行けって言われて」
「あのひとは……!」
「でも、ほんとにそうなるなんて。びっくりしちゃいましたけど」
小さく笑って、ノルンは両腕に抱えていた紙袋を差し出してみせた。微かに開いた口からは真っ赤な林檎がふたつ覗く。
「包丁、貸してくれますか? うさぎさん作ります」
「……君はやはり豪胆だ」
れっきとした校則違反をものともしない笑顔に、思わず苦笑いがこぼれる。本来なら風邪が移るからだとか適当に理由をつけて追い返すべきなのにそうしなかったのは、ただ嬉しかったからだ。いちばん会いたかった相手が会いに来てくれたのだから。
「あの、ロクシス……今回は本当にごめんなさい。わたしがしっかりしていたら」
「君が貧弱なのは織り込み済みだ。謝罪は受け取るが、これきりにしてくれ。私のためにも」
諸々の意図を汲んでくれることを確信して、今度はその肩を軽く掴んで引き離した。せっかくの笑顔がここから曇っていくことにはさせたくない。突然飛び込んできた幸運を享受するために先回りした私に頷くノルンは、柔らかく微笑んだ。
***
などという安らぎが終わらないことなどあるはずがない。ここは男子寮で、ノルンは非公式に立ち入らざるを得なかった立場にある。そんなことにベッドの上で気づいたのはすっかり日が落ちた時刻。
「だめだろう」
「だめですね……わたしは窓から帰ります!」
「翼は持ってきたか?」
この問いに無言が返ってきたときには時すでに遅し、もともと騒がしいわけではなかった廊下にはひとつの足音があった。女子寮と変わらないルールなのだからノルンが蒼白になるのも頷ける。週一の見回りの時間だ。
「どどどどうしましょう」
「落ち着け。隠れる場所ならいくらでもあるだろう……」
部屋を見回し、後悔に移るまで数秒とかからない。何しろ部屋にあるのはこのベッドといくつかの棚。広さなどたかが知れているここに人間ひとりが身を隠せる余裕などどこにもなかった。
あるとしたら――ノルンが慌ててベッドの下の隙間を確かめてうなだれる様を眺めながら、ふと思いついた策に背筋が冷えるのを感じた。普段ならいくらでも精査の余地がある選択に、見回り担当が来るまでの猶予が横槍を入れた。迷っている時間はない。
行き場を失っていた小さな手を掴んだのはそんな焦りからだ。
「こっちだ!」
