与えられたのは、作戦行動関連を除いたほぼ全権だった。目の前のコンソールひとつで施設のあらゆる情報を把握し操作できる。その延長が区画形成だった。機密保持、防炎措置……とにかく適当な理由をつければ防火シャッターの要領で施設内へ一時的な壁を設置し、内部の人間の動線をコントロールできる。それは誰の目にも触れさせたくないものを堂々と運び出すことにも使えた。
今回の場合は、生きた人間。それもこの場にいるはずのない部外者を。
施設内の設備や人員配置を探るために手当たり次第モニタリングしていたときだった。廃棄が決まった不用品を一時保管する倉庫に白煙が上がるのを見つけた。警報が作動しないところからすると、火災や有毒ガスの類ではない。うず高く積まれた段ボールの隙間から漏れるそれが薄れたとき、こわごわと歩み出てきたのは小柄な人影。どこかから染み出した薬品だろうか、赤茶色の液溜まりを踏みつけたのにも気づかずに辺りを見回している。
見覚えがあった。しかし最後に目にしたのはずいぶん前、日本での話。それがなぜイタリアなどで再会することになるのか――十年前と変わらない姿で。
「すずめちゃん」
声にして、反芻する。確かにあの三つ編み、身長、面立ち、どれをとっても本人だ。
決して嬉しいものではなかった。ここはミルフィオーレの陣中深く、ボンゴレの関係者だと知れたら身の安全などないに等しい。雲雀恭弥の恋人の遺品が病院から盗み出されたことまでは耳にしていたが、よりにもよってミルフィオーレが絡んでいたとは厄介極まりない。芋づる式に今回の潜入の発覚につながっては面倒なことになる。
しかし利用はできる。段ボールのラベルから察するに、中には運用不可と判断された匣やリングも含まれているらしい。厳重な封がされない雑な扱いのおかげで持ち出すのは容易い。それらを使えばすずめちゃんは逃げられる。結果的にボンゴレはともかくとしてクロームの力にはなるだろう。たった数日のつながりとはいえふたりは友人だという。十中八九心身ともに大きなダメージを受けているであろうクロームを使いものにする要素は多いに越したことはない。
そのためにはすずめちゃんを目の前に連れてくる必要があるが、途中までは直接向かわせればいい。運よく、今はそれが叶う立場だ。
「ランボさん? イーピンちゃん? どこ?」
モニターのスピーカーをオンにすると、不安げな呼びかけが数度されている。これ以上騒がれる前にとマイクもオンにした。指示通りにさせれば、生体認証が必要ない中層まではひとりで来られるだろう。そこで合流して施設から叩き出せばいい。
「すずめちゃん、よく聞いて。今から君を雲雀恭弥のところまで送ってあげるからね」
倉庫のみを対象とした通信に対し、辺りを見回した後の「誰?」とは当然の返答。この声をすずめちゃんが耳にするのは初めてだった。ここで真実を話してやる必要はないだろう。用意した地位は存分に利用する。
「僕はレオナルド。彼の知り合いだよ」
***
すずめちゃんに回収できたのは匣とリングが二つずつ。どちらも戦闘用に調整されたものだった。とはいえ所詮は不適格品、今後も継続して利用できるかは不明な代物だ。
いくつかのエレベーターを乗り継ぎ、区画に組み込んだ階段の昇降を経由したおかげで内部の人間の目に触れることはなかった。意外にも軽く息を切らしたのみのすずめちゃんは中層を難なく登りきった。当初の通信で急かした通りの足早な移動はそこまでの負担ではなかったらしい。
それよりも、自分の置かれた状況のほうがよほど神経をすり減らしているだろう。見知らぬ土地に飛ばされ、顔もわからない人間に誘導され、奇妙な構造のタワーをひとりで移動したのだから。モニターで監視している間、強張った表情が和らぐ瞬間は欠片ほども訪れなかった。
最後に見たのは数年前の幸せな笑顔だというのに。
そのときの雲雀恭弥はまるで宝ものか何かのようにすずめちゃんを扱っていた。いや、実質その通りなのだろう。壊さないように触れて、眩しいもののように見つめて、決してなくさないようにそばに置いて。恋など知らないようだった男の行動は行き過ぎてはいたが、本人に知る由はない。
いつしか彼の告白を受けて恋人になったすずめちゃんはといえば、まだ彼の感情を完全に受け取れるほど大人になれてはいなかった。ただ何のためらいもなく真っ直ぐに雲雀へ向ける好意に、幼いころとは異なる別の感情が含まれることを除けば。
何の関心もない人間から見ても、ふたりは確かに引き離し難い存在だった――これはもう、過去の話だ。片割れは去り、ここにいるのはその子どものころの姿。弱々しく、小さく、こうして手を貸してやらなければ簡単に潰える命。
「お疲れさま。僕がレオナルドだよ」
待ち構えていた青年を、すずめちゃんはおずおずと見つめる。初対面のそれとほぼ同じ状況なのがいっそ愉快だ。
「変わらないね。本当に危険な人間は見抜けるんだ」
「ぼくのこと知ってるの?」
「知ってるよ。とてもよく」
思い出したようにその手が華奢なシルバーの指輪をポケットに収めるのを認め、察した。おそらくは、過去のすずめちゃんがこんなところへ現れたのはそれが原因なのだろう。なぜミルフィオーレの倉庫になど放置されていたのかは、管理者を問い詰めることでしか明かされないが。
内鍵のみがかかる簡素なミーティングルームにすずめちゃんを招く。施錠するよう言ったがこれには首を縦に振らない。緊急事態とはいえまともな判断力は残っているようだ。さすが、一度攫われた経験を持つ人間といったところか。その犯人が目の前の青年と知らないままなのは笑い話にもならない。
「ここ、どこ?」
「イタリアだよ」
マフィアの名など出してもここでは無意味だった。しかし代わりに差し出した単純明快な答えはすずめちゃんを絶句させるのに十分なインパクトを持っていたらしい。事情を知らない子どもがたまたま持っていた知識に振り回されるのを見るのは、普段なら楽しいのだろう。今はあ然とした顔を眺める時間も惜しかった。
「驚くのは後でね。持ってきたものを見せて」
「これ」
小さな手のひらで差し出されたリングと匣を受け取る。片方は所有者が装備するタイプの匣兵器、もうひとつは霧の性質を利用した一方通行の転移装置。後者は技術の安定が難しく、並盛での細かな到着地点を指定したワープが不可能との実験結果を読んだことがある。これはボンゴレへ直接攻め入るための道になるはずだったらしい。ないよりましとはいえ、ある種の博打になることは否めない。そしてその賭けはすずめちゃんが行うことになる。
「それ、何に使うの?」
「君がはめるんだよ」
手を取られるところを、すずめちゃんはとっさに身を引いて避けた。逃がすはずもないのに無駄な抵抗をするのは変わらない。細い手首を捕まえて、リングを強引に右の中指にはめさせようと近づける。子どもひとり、自分のものではない体でも押さえつけるのは簡単だった。
「やだ、やだよ」
「大人しくしなさい」
「キョーヤ……」
ここにはいない男の名前を聞く。温和な青年の仮面が剥がれかけるのを自覚し、ひと呼吸置いた後に一気に奥まで押し込んだ。その瞬間にリングに灯ったのは黄色の炎。死ぬ気でこの男から逃げなければ、といったところか。
発火に驚いて凍りつく隙に匣兵器を炎にねじ込ませる。すずめちゃんの目が炎の輝きに細められるが、怯えた表情を長く観察することはできなかった。匣の中身がすずめちゃんを取り巻いたから。兵器というカテゴリーとは裏腹な、ただのレザーコートとガスマスクだ。
「それが何なのかは知らないけど、ワープの負担は軽減できるはずだよ」
装備品ならばその程度の性能はあって然るべきだ。とはいえ、ここで優先するべきはすずめちゃんの脱出であり安全ではない。少々ダメージが残ったところで目的が果たせればいいのだから、危険は二の次だ。
もう一方の匣を起動させる。小さな絵画が飾られた壁にぼんやりとした歪みが浮かび、水面のように空間を波打たせた。無音で発生した現象は、藍色の虚ろな口を開けて待っている。そこに飲み込まれたら最後、ここではないどこかへワープすることになる。この場合は、ミルフィオーレの当面の攻略対象とされていた並盛へ。
「さようなら、すずめちゃん。よい旅を」
もうこの子の様子を鑑みる必要もない。掴んだ腕を引き寄せそのまま穴に放り捨てた。ゴーグル越しの目が見開かれ、反射的に伸ばされた手がこちらを捉えようとして――その姿ごと跡形もなく消え失せた。その瞬間に匣とリングは砕け散り、ワープは二度とできなくなる。
それを眺めて思い出したのは、過去の雲雀恭弥のことだった。
今の彼の隣にすずめちゃんはいない。
***
すずめちゃんはアジト内の医務室に運ばれる途中で目を覚ました。しかし、誰のどんな呼びかけにもまともな受け答えができない状態だった。ぼんやりとした瞳はここに意識がないことを如実に語っていた。
しかし医務室に駆けつけたハルがレザーコートを脱がせた途端、すずめちゃんははっきりと彼女を見据えた次の瞬間には驚いて椅子から転げ落ちそうになった。投げ出される装備が匣の状態に戻るのを、リボーンとビアンキは目で追う。
「すずめちゃん!?」
「危ないっ」
ハルとツナ、ふたりがかりで支えられたこともわからないというようだった。きょろきょろと辺りを見回し、目の前に集まる面々の安堵の視線を声もなく受け取るばかり。
「よかったぁ、気がついたんですね!」
「怪我はない? あ、私飲みもの持ってくるね、待ってて」
京子が厨房へ駆けていくのを離れたところで見ていた。すずめちゃんがこちらに気づかないというのに、ひとこともかけられずに。
今回の作戦が動き出したときから、こうなるのは可能性として大いにあり得ることだと理解していたはずだった。しかしこうして、手の届くところにすずめちゃんがいることが夢の中のできごとのように現実味がない。
本当なら彼らのように無事を喜べた。しかし、あの日から何かが麻痺したかのように感情がブレーキをかける。いつかの自分は何をおいてもこの手ですずめちゃんの存在を確かめただろうに。
確かに最期を見送った相手が、昔の姿で生きている。
「ヒバリ」
いつの間にか足元に来ていたリボーンが、毎度のように読めない表情を浮かべたまま傍らの棚に飛び移った。ハルに抱きしめられて戸惑うすずめちゃんを横目に、そわそわと落ち着かないレオンを宥めて。
「あれはお前の知ってるすずめちゃんじゃねぇ。忘れんなよ」
「どういう意味」
しかし答えは獄寺とハルの小さな歓声に遮られた。すずめちゃんが「ここはイタリア?」と奇妙だが明確なことばを発したからだ。ランボとイーピンがすかさずその膝に飛び乗って何かを言い合う。喜んでいるのだろう。
「日本だよ! というか並盛だ! 何だよちゃんと話せるじゃねーか! よかった……」
「どうしてイタリアだと思ったんですか?」
「ぼく、イタリアから来たの」
「え? 何で、っていうかどうやって?」
子どもたちを引き取りながらもツナの疑問は尽きない。すずめちゃんが異国の地にいたのは首に下げた指輪で説明できるとして、問題は移動手段だった。すずめちゃんの発言が間違いでないなら、ミルフィオーレはどんなに離れたところからでも並盛へ侵攻できることになる。
「その辺のことはオレたちで詰めるか。後でな」
リボーンは今度は笑みを見せ、ついでにさらりと思考を読んで飛び降りた。弱体化は嘘なのではないか、そう思えるほど余裕だ。そしてこの場での検討を止めたのは、ちょうど京子が戻ってきたからだと察しがつく。
「はい、すずめちゃん。ホットミルクだよ。ゆっくりでいいからね」
「ありがとう」
ようやく柔らかな笑みを見せ、すずめちゃんは両手でマグカップを受け取った。何度か息を吹きかけ、口をつけ――それを飲み込むことはなかった。
「……うん、大丈夫だよ。みんないるからね」
「そうです! もう心配いりませんから、だから……泣かないでください……」
「でも、でもね……」
呆然と手の中のマグカップへ視線を落とし、すずめちゃんは涙をこぼしていた。しゃくり上げながら、苦しそうに話すのを京子もハルも、その場の誰も止めない。
「ぼく、何にもわかんなくなっちゃって、みんなと、初めて会ったときみたいで」
「うん……」
「どうしよう、また、何もできないって、何もできなくなっちゃう……」
「そんなことないよ。ひとりでここまで来られたんだもの」
背後から歩み寄ったビアンキに抱きしめられても、ハルに涙を拭われてもすずめちゃんは泣き止まない。京子はそうっとマグカップを机に引き受けると、小さな手を両手で包んだ。膝をついてすずめちゃんと目を合わせると、こちらを振り向く。
「ヒバリさんもいるよ。すずめちゃんが来てくれて喜んでたんだよ」
そうだろうと目で問われて頷く。ここに来てようやく、彼女たちのいたわりが僕の役目でもあったことに思い至った。ランボとイーピンが競うように草壁を呼びに行くのが足元を通り過ぎていく。
すずめちゃんが泣くのを見て、指先ひとつ動かせなかった。ミルクの湯気が時間とともに消えていくように、大切な存在をなくした虚ろはすぐには取り戻せない。すずめちゃんの涙は胸が潰れそうになるほどの痛みを伴うはずだ。その苦痛をほとんど感じないほど、心はあの日叩き潰されたまま戻っていない。
京子に言われて、すずめちゃんはやっとこちらの存在に気づいた。目を乱暴に擦りながら、それでも真っ直ぐ見つめる視線。潤んでまともな視界など形作られないだろう瞳は、何度も瞬いた。
微かに赤みの増したような唇は何かを口にしようとゆっくりと開かれ――それが雲雀恭弥の名前をかたどることはなかった。
「あなたは誰」
