ないものねだり

 

 その日は町に出る気がなかったから砂浜を歩いていた。適当に時間をつぶして、帰投時間ぎりぎりまでこの手ぶらをごまかすつもりで。

 波の音のほかには、ときおり甲高く鳴く海鳥の声だけがある。それらすべてを聞き流しつつ流木のそばに座り込んで落ち着き、晴れ空と水平線の合間をながめた。波間にきらめく光が目を刺して痛いけれど、砂以外なにもないところを見ているより多少はマシな気がする。

「青い色にもいろいろあるんだなって思ったんだ」

 そう言っていたシアが住んでいたところは海から遠く離れていたという。きっと彼女はいまでも、上と下それぞれの青の名前を覚えられていないのだろう。そんなことができる余裕はあの艦のどこにもない。こちらはそもそも覚える気もないが。

 上と下。

 そんな形のものが砂浜にもあった。正確には埋もれかけて、ともすれば見逃しそうなさりげなさで。

 掘り出してみればそれは単なる貝だった。ぴくりとも動かず小石となんら変わりない鈍い色。指先でつまみ上げた感じはそこそこに硬くて投げるのにうってつけといったところ。

 さっそく海面に向かって振りかぶり、やめた。

 実物を見たのはこれがはじめてだと思い出したのだ。映像資料が詰め込まれたライブラリには動物のものも収録されていた。

 そのなかで、イルカと比較すると砂粒のようにささいな紹介のみにとどまっていたのが貝だ。だからここに至るまで忘れていたのかもしれない。

 ***

 その日は甲板で会ったシアに拾った貝を見せた。めずらしいと目を輝かせて、彼女は飲みかけのボトルをそこそこにこちらの手のひらの上へ視線を落とす。まるで宝でも見つけたような反応がいまいちぴんと来なかった。これはどう考えてもタバコの吸い殻と同レベルのものだったから。

「ずうっと昔に家で食べたっけ。懐かしい」
「これ食べられるやつなんだ」
「うん。誰かが浜で料理しようとしてひとつ落としちゃったのかもね」

 貝は陸に上がりたくて上がったわけではないらしい。それよりも、ぴたりと殻を閉じたその中身が気になった。あの映像では漁のようすしかわからなかったから。

 とはいえ、こんなに小さなものの中身を食べても満足できるとは思えない。

「わざわざこんなのを食べるのかよ。しかもあんなとこで」
「浜焼きっていうんだって。とれたてをその場で食べるからとってもおいしいし、天気もいいし、って聞いたよ」
「ふーん」
「わたしも食べてみたかったなぁ」

 心底そう思っているのが声色だけでもわかる。育ちが違うと積み上げた知識の色も違うようだ。

 食べものの味に場所なんて関係あるのか、そんな疑問はシアの顔をなんとなく見つめていると「そのとおりだ」が正解のような気がした。楽しいことを考えているはずの明るい表情は、雲ひとつない青空を背に逆光で暗く沈んでいたから。

 ***

 その日は貝をなんとかこじ開けようとした。爪か、最悪マイナスドライバーでもねじ込んでやれば簡単だと思っていたが、いざそうしようとすると妙な軋みがある気がする。

 別に、これが割れようが砕けようがどうでもいい。お宝でも機械でもないのだ、目的のものを取り出せたらそれでおしまい。しかし同時に彼女の話が頭から離れなかった。このなかにはシアが目を細めるほど、いいものがあるのだと。

 ほかのふたりが興味を失ってそれぞれの手元に視線を戻すなか、眠気も忘れて席を立った。海が好きで、およそ戦闘になんら役に立たないことばかり詳しい彼女ならいい案を出せるだろう。ふたりで「浜焼き」とやらのまねごとができたなら、待機続きの退屈も少しは晴れるだろうと期待して――取り分は要相談。

 ***

 その日は、というか二日前からシアの姿を見なかった。

 本腰を入れて探してはいないが、それはそれで気になるというもの。艦のなか、気分で一日の行動パターンを変えることなどありえない。

 気づけばすれ違う者ほぼ全員の顔を盗み見ている。ツナギを着た大男も含めてだ。たった数日でこちらより背が高くなったシアなんてお笑いだというのに。

 ***

 その日は大雨だった。

 研究員たちの部屋から出てくるシアらしき女性兵士の後ろ姿を見たが、声はかけなかった。彼女の役割からいって厳重管理のプロジェクトルームにいることなどありえないし、たとえ呼びかけても窓を突き抜ける雨音にかき消されるだろうと思ったから。

 ***

 その日はひどい寒気で寝込んだ。

 貝は枕元に置いたまま。まだ、これの開け方をシアに聞けていない。

 会いたい。

 ***

 その日は朝いちばんに貝を床に落とした。たいした高さではなかったがそれには致命傷だったらしく、衝撃で数ミリほど口を開けている。

 不注意が生んだ結果とはいえ待ち望んだ瞬間がやってきたというのに、かけらたりとも高揚しない。拾い上げて中を覗き込んだとき、その理由はすぐにわかった。

 空。

 そこにはなにもなかったから。

「なんだ」

 ぽつりとこぼれたのは納得のことばだった。

 この貝は大切な中身をどこかに落としてしまったから、いままで動けずに黙っていたのかもしれない。海の中か、あるいは砂浜か。どちらにせよ、見つけられることなど万にひとつもないのだろう。

 ***

 その日は久しぶりにシアに会えた気がした。開け放たれたリフレッシュルームで、ひとり空のボトルを捨てていた横顔は近づく足音に不思議そうに振り返る。まるで話しかける者の存在がめずらしいとばかりに。

「あれ、開いた。中はなにもなかったけど」

 中、と、乾いたおうむ返しの後。

 泡のようにあいまいな輪郭で浮かんだのは困惑だった。

「ごめん……なんの話だっけ」
「……お前の話」

 半分当たりで半分ハズレの答えをぶつけた。

「シア」

 微かに見開かれる目――これには、予期していた手ごたえがある。ほかのすべてはともかく自分の名前は、まだその内に持っているらしい。どこかに落としたわけでも誰かに食われたわけでもなく。

 だがいずれ、そうなる。

 だから彼女は「いつかいっしょに食べに行こうね」とはもう言わないのだろう。そんなことを思いつく自分にいちばん幻滅して、深く息をつき目を閉じた。

 もう開くのもおっくうだった。

 

ランダム単語ガチャ No.1753「ないものねだり」