奇妙な声。
幻聴だとわかっているのはいいことなのかどうか。
ことばの形を持っていない、輪郭のあいまいな響きは絶えず脳裏に直接叩きつけられていた。不快さとともに耐えられないほどの冷気が背筋を伝って全身へ広がっていく。
医務室のベッドに横たわったまま手のひらを掲げれば、控えめに落とされた照明とともにかじかんで曲がった五指が目に入った。無理に広げると軋む痛みとともにかろうじて動きはする。閉じることにも同等の労力が必要なのだろうか――その可能性に思い至れば実行する理由もなくなり。
「寒い」
無意味なひとりごとは誰にも拾われなかった。
ここには実質ひとりだけだ。
***
生体CPUはすでに実戦投入されているものの、同時にモルモットでもあるらしい。先ほど投与されたのは承認前の試薬だという。よりよいものを作るための試行錯誤だと、研究員たちは温かなリフレッシュルームで話し合っていた。
この体を材料にまた新しい兵士が作られる。
彼らへの同情も義憤もとくになく、あるのはいら立ちだった。使い捨てられる自分に自覚はあった。延命のためにコーディネーターたちを墜とすことも飲み込んだ。それなら、何かひとつくらい得があってもいいはずなのに。
あまりはっきりとしていない十数年分の記憶を投げやりな気分でたどり、ひとつだけ拾い上げたものがある。
泣き顔。正確には、泣き出すのをこらえて強張った表情。
アリーシアはいたって健康だった。それなのにあんな顔をしたのは、自分には想像もつかない症状でのたうち回る男たちの痛みを読み取ったからだという。
「可哀想に。感情移入もあそこまで行けば病気だ」
そう言ったのが誰だったかの方は覚えていない。
薄い肩を震わせながら処置の準備を進める背を目に焼きつけることの方が、大切だったから。
***
そんなことがあったのがいつだったか、わからない。
ただ、アリーシアが元気でなくなるだけの時間が横たわっていた。
「ねぇ」
すぐそばに腰かけるところへ呼びかけたら、応じる目。けれどそれだけだ。
彼女は戦況に迫られた急ごしらえの適正化で、並の兵士以上の判断力と状況適応力を身に着けた。代わりに元の人格は薬品にはじき出されてどこかへ消えた。
ややあって、「なに」とだけ、返ってくる。感情はあっても表情が失せて、まったくの別人のよう。彼らに(もちろん僕も含む)からかわれて怒っていたのが嘘みたいだった。冗談を言い合って笑っていたのも。
いつか泣きそうにしていたことだって。
「手、貸して。起きるよ」
頼めば、静かに差し出される手は小さい。柔らかい温もりは、今のこちらには痛いほどだ。
「アリーシアは変わらないね」
変わらないものの方が多かったのかもしれない。けれど、きっとアリーシアは二度とこっちを向いては笑わない。あのふたりにだって。
「……僕の名前」
なんとか上体だけ起こすと、視線がより深く溶け合う。ゆっくりとした瞬きがよく見える場所。
「言える?」
「クロト」
――その声で呼ばれただけで、胸がひどく潰れた気がする。
石でも数えるかのような無機質な音だった。
「うん、合ってる。合ってるよ」
何度も頷いて、そこからはだめだった。立てた膝に額を埋めて、体は折れ曲がる。
さっき聞いた、正体のわからない声はアリーシアのものだった。笑みとともに名前を呼ぶ声。
もうどこにもないものだ。
「僕とお前で、ちょうどよくなれたらいいのにね」
痛みを痛いと感じるのは感覚。それを恐れたり憎んだりするのは感情。いらないものをアリーシアにあげられたら。そうしたら、彼女は元通りになるのかもしれない。
そんな方法はこれまで一度だって教えられたことはないけれど。
だから、優しく頭を撫でていく手のひらからどうにかしてつながれないかと――そんなくだらない妄想をして。
ランダム単語ガチャ No.1896「まだら」
