奇妙が始まる

 ほとんどが浮き足立っていたクラスメイトたちはそれぞれの部活や委員会へ出かけてしまった。ひとり残されたのは好き好んでのことではなく、心情としてはむしろ苦行に近い。先ほどまでは冷や汗が出ていたほどには、深刻に。

「この……自分には絶対にできないってわかってることが必須条件として立ちはだかってるときの、絶望感みたいな。うぅ、気持ち悪くなってきた」

 無言で目の前に差し出されるペットボトルをありがたく受け取ると、指にまとわりつく水滴が心地いい。若干クリアになった視界で見下ろした先には、変わらず空欄が並ぶ問題集があった。冷たい麦茶を口にして、改めてシャープペンを握る気になったのはここにキョーヤがいてくれるからだった。夏休みを目の前にして忙しいはずなのに、わたしのために。

「キョーヤは数学得意なの?」
「どれもできる。だから来たんだよ」
「ありがとうー……キョーヤがいなかったら多分負けてた」
「で、続き。みどりは何に追い詰められてるの」

 涼しげな表情は夏を感じさせない。ひとつ前の席を陣取ったままの逆さまをものともせず走らせるボールペンを目で追いながら、一問目に取りかかった。その途端にくらくらするのは暑さではなく、意味不明な文字の羅列のせい。

「例えば、国語だと漢字を読みたくて読みがなを答えるでしょ。地理だったら、地図を読み取るために地図記号を覚えるのに。でもこれは何なんだろう、何の答えを出したくてxとyを並べてるんだろう」

 教科書のはじめの方には、数学は天体や宇宙ひいては自然を読み解くためのツールだと書いてあった気がする。気がする、というのは、そんなところをわざわざ読み返したって方程式を解けるようにはならないから。

 それに、キョーヤのように何の苦もなく理解できる子だってたくさんいる。だからなおさらわからなくなってしまう。必要なことなのにこんなにわからないのは、わたしのどこかが違っているのかもしれない。ラジオのダイヤルがずれているみたいに、そのままでは永遠に何も受け取ることはできない。

「それがわからないのかい」
「キョーヤは知ってる?」
「出した答え自体に何の意味もないことは知ってる」

 わたしがやっとのことで並べた方程式の左側をペン先で示しながら、ふと空いていた方の手で眉間をつつかれた。難しいものを目の前にして表情を強張らせてしまうのはわたしだけ。

 そういえば、キョーヤが顔をぎゅっとするのを見たことがない気がする。あったとしてもわたしには全力で隠してしまうのだろうけど。雲雀恭弥はそういう子。とりあえず、わたしのように宿題に四苦八苦することは万が一にもありえない。

「必要なのは考え方だろうね。わからないことに対してどうあたりをつけて、どう結論を出すかの過程を見出す方法を問われてるんじゃないの」
「難しいよ……」
「みどりは、頭を柔らかくする学問だと思えばいい」

 とてもつなくわたしにわかりやすい例えが降ってきた。顔を上げると、同じようにしていたキョーヤと目が合う。こんな暗号めいた文章を目の当たりにしてなお、普段の冷静さは健在で。窓の外の明るい青と相まって、見つめられていると心が凪いでいく静かな瞳。

「何」
「キョーヤって、たまにとっても生徒じゃないこと言うんだもん。ほんとはいくつなの?」
「それ、宿題の答えと比べたらどっちが知りたいの」
「それはもう、こっち」
「なら集中しなよ。終わったら出かける」
「はぁい」

 今日は木曜日。近くのドラッグストアでアイスの割引をしていると教えてくれたのは草壁先輩だった。甘いおやつを片手に委員の仕事を片づけるキョーヤを眺めるのは、わたしの学校での楽しみのひとつだったりする。もちろん、お手伝いの合間に。

「……今日はよく鳴くね。うるさいくらいだ」
「蝉のこと?」

 肯定に瞬く目の先を追って、窓の向こうを見下ろした。

 注意を向けきれていないのか、わたしには一、二匹のまばらな音しか聞こえない。

 ――そこへ割り込んできたのは、けたたましいサイレンだった。

 ***

 割合としては学校にふたりいるかどうか。センチネルの希少さは、その特徴とともに世界中に浸透し始めていた。鋭い感覚と引き換えに、投薬でも手術でも治せない発作を抱えてしまう存在は、並盛中にも数人がいると言われている。――あいまいなのは、本人に自覚がなかったり、口にしづらいからだ。

 今こうして、昇降口からセンターのバンに搬送されていく男子生徒のように。

「風紀委員に申告のなかった生徒だ。ここ最近発現したんだろうね」

 つき添いの委員から携帯電話で報告を受けたキョーヤは、抑えた声のままわたしを教室の外へ促す。

 春先にひとり目が見つかってからのキョーヤの行動は早かった。風紀委員全員に携帯電話を持たせ、発作を起こした生徒を見つけ次第即刻センターへ連絡する体制を作った。何かと学校に必要なはずの報告や決裁は、キョーヤが省略して――その手段はともかく。

「すぐ来てくれてよかったね」

 心の底からそう思っているのに、垂らした墨が滲んで広がるのに似た不安は消えなかった。窓から見下ろしただけなのに、運ばれていった先輩が苦しそうに呻く声が聞こえた気がした瞬間から。まるで自分が痛み、あるいは息苦しさを抱えてしまったかのような動揺が、足音もなく迫ってくる。

「……自分の吐いた息を吸って」

 いたたまれなさのあまりキョーヤの背中に隠れたわたしを、肩越しに振り返る気配。囁くように微かな、低い声。大好きな響きが背中を支えてくれるのがわかって、答える代わりに頷く。

 悪癖だと、そう指摘されたのはいつだったか。自分のことではないものにいちいち反応する上に引きずられてしまうのは、感受性がどうこうという範疇を超えているのだと。

「そうすれば収まる。君は苦しくないでしょ」
「うん……ごめんね。もう平気」

 大きな両手が肩を包む。わたしがどうしようもないのを、キョーヤはいつも許してくれる。それが嬉しかった。

「僕は校門の委員のところに行く。みどりは昇降口で待って……いや、応接室へ」

 言い直したのは、きっと様子を見に集まっているはずの生徒の数を思い起こしたからかもしれない。自分たちには縁遠いセンチネルの現実に直面した彼らの反応は決まって不安に満ちている。決して明るい話題に転じることはないざわめきは、しばらく収まることはないのだろう。

「ああいう集まりに君を近づけたくない。好きに休んで」
「キョーヤも、気をつけてね。それじゃあ後で……」

 髪を撫でる手を名残惜しく感じながら、廊下で一度別れた。ソファーで本を読んでいようと決め、浅く広がりつつある騒ぎの中を早足に抜ける。途中で誰にも声をかけられなかったことを幸いに思いながら、もうお邪魔することに慣れた応接室へ入り、暇に任せて適当な鼻歌を数度繰り返し――そうして数時間が経った。

「キョーヤ、遅いなぁ」

 ひとりごとに応える声はない。ここにはわたししかいないからだ。事態が急変したのなら、何か手伝えることがあればいいけど。そう思って部屋を出て昇降口を覗いてみると、すでに有事の気配は去って残った生徒も風紀委員もいない。

 ただ、夕方の橙の光が、静かに注いでいるだけだった。

 体に染み入るような暑さが、すっと引いていく。あんなに遠かった蝉時雨は、一階に降りた今は耳に痛いほどだ。こんな中を、キョーヤはどこに行ったのだろう。

「風紀委員長、見なかった?」

 部活の片づけを終える数人に聞いて回り、体育館や校庭を通り過ぎる。どんなに視線を巡らせてもキョーヤの姿は見えなかった。どこからでもあの姿を見つける自信はあるのに、学校のどこを探しても。

 たったあれだけの時間離ればなれになることは、今までだって何度もあった。それなのに胸騒ぎがするのは、あの一件があったからではないような気がする。もっと別の、もはやこじつけとしか思えない脈絡のない黒い予感。

「どこ……?」

 敷地を三周はしたころ、ふと学校を取り囲むフェンスを見上げた。きっかけなんてない、ただの気まぐれ。この体育館裏にも例外なくある網目の向こう側には、もともと何があったのか想像もつけられないほど木々が生い茂っている。

 その、一点。

 ――今までどうして見逃していたのか不思議なほどの大きな裂け目が、ぽかりと口を開けていた。

 この先を進もうとするのに根拠はなかった。あるのは確認だけ。蝉の声がだんだんと遠ざかるのを感じながら、辛うじて歩いて行ける道へ踏み入っていく。怖い虫も、大きな蛇もいなかった。真夏につきものの、あらゆる命の気配がここにはない。

 その理由は、不意に開けた視界の先にあるこの建物なのかもしれない。

「……どうして……?」

 口をついたのは、驚きよりも既視感のせいに近い。いつごろ習ったのかも忘れてしまった鹿鳴館、記憶に残っている姿そのものが目の前に鎮座していた。白く大きなお屋敷が、何の前振りもなく突然現れて当然のような顔をして、そこにいる。外壁に伝う蔦や申し訳程度の土汚れが、わずかな説得力を持っているだけで。

 ありえない。学校と隣り合わせにこんな建物があったら気づかないはずはないのに。

 そんな疑問はすぐに吹き飛んだ。

 城門にも通じた大きな扉の前に蹲る人影を見つけたから。