このところ、応接室に入った後は後ろ手にドアを閉める変な癖がついてしまった。万が一にも廊下を通りがかる誰かと目を合わせたくなくて、そう答えた時のキョーヤの目は楽しげだった覚えがある。ちょうど、今この瞬間のように。
カーテンを閉め切った、ふたりきりの空間。彼が腰を下ろしているソファーへ歩み寄ると上履きが床と擦れてほんの微かに鳴る。心音はそんな些細な音量に紛れてはくれなくて、笑顔の方を向くことすら面映ゆかった。胸の奥が痛むのは緊張のせい。嫌悪感ではもちろんなく、かといって何回も味わいたい類の喜びとも違う。きっと、経験するたびに自分の中のどこかが変わっていくことへの好奇心と戸惑いに似ている。
これから起こることを知っている。わたしたちがどうなるかも。
「おいで。もっと近くに来られるでしょ」
差し伸べられる手は震えてはいない。けれど指先を重ねるとすぐに冷たさが滲んできた。見た目ばかり余裕で、それでもキョーヤはゾーンに落ちかけているとわかった。ガイドのわたしにその苦しみはわからない。だからこそ、もう十分だと言われるまでそばにいたくて。
「……まだ、慣れないのかい」
「よくわからない。頭がふわふわして……これはいけないことなんじゃないかって思うの」
「それはみどりの中の道徳がそう思わせるのかもしれない。でも、僕たちにそんなものはもう意味がないでしょ」
手首の内側を、長い指がするりと撫でていく。くすぐったいのと、もうひとつ、皮膚を通り越してわたし自身に触れられたような温もりと痺れが一気に背筋へ伝った。膝から力が抜けてソファーへ沈む体を、キョーヤは支えてくれる。
言うとおりだった。少し前から、わたしたちは日常から一歩外れた場所にいた。きっと、隣り合って座っているだけのこの状況でもキョーヤにはわたしの心音が聞こえている。比喩ではなく、本当に鼓動を認識して。
「呼吸が乱れてるね。苦しそうな音がする」
まっすぐな瞳は喉元で耳を澄ませるでもなく言い当ててみせる。
聴覚の異常発達。
キョーヤのセンチネルとしての力は音を感じ取ることに特化してしまった。それは自分の心身を削りきるほどに大きな負担になる。ある日突然何かに押しつけられた現実を、キョーヤはコントロールすることしかできない。俯いてやり過ごそうとしても、非現実はなかったことにはならなかった。
「大丈夫」
――わたしのことばは、その場しのぎなのかもしれない。ゆっくりと倒れこむようにするキョーヤを両腕で抱き留めて、夕方の橙色がわずかに透ける室内でも黒々と艶やかな髪を梳いた。背中に回る長い腕に力強さはなく、それがもどかしい。猫が頬を擦り寄せるように些細で、甘くて、あまりにも弱々しい抱擁。
何を思って、こうしているんだろう。
わたしにはそれがわかってしまう。
「大丈夫。どこにも行かないよ」
「……間違えないで」
そよ風に掻き消えそうなほど小さなことばが届いた。空より淡い、透明な音。
「センチネルだとか、ガイドだとか、関係ないよ。こんなことがなくたって何も変わらない。僕は君をどこにもやらない」
「うん、わかってる。わかってるよ」
「みどり」
続きのない声とともに部屋に夜が混じり始める。それでも互いに動こうとはしなかった。確かに苦痛が混じり、同時に穏やかでいる空気を壊したくなくて、長い間。
