彼の元から走り寄ってきたのを反射的に胸に抱きとめ、しかし思考はいつまでも追いつくことはなかった。確かに倒れたはずの白蘭が、心の底から安堵した柔和な表情を向けているのがなぜなのかも知る由はない。森に差す昼の光の中に佇む場面を見ることになるとは思ってもみなかった。

「約束だもんね、今度はバニラを倉庫送りになんてしなかったよ。いっしょにがんばったんだ」

 その肩に乗せた小さな白兎を指先で撫でる仕草とともに視界に入っている、ふわふわと柔らかそうな髪がある。抱きついてくる小さな手がある。視線を下げることができなくともこれが誰なのかわかった。見違えるほど大きくなったとはいえ、いつまでたっても可愛い子のままの。

「キョーヤ」

 ――その瞬間、確かに肩が震えた。もう訪れるはずのない日に聞いた音色が腕の中にある。何度でも名前を呼んでくれるはずの声が次に紡いだのが涙声の「ごめんなさい」だという現実が、そうして泣き止まないのがだんだんと耐え難くのしかかってきた。

「どうして、泣いてるの」
「だって」
「泣かないで。顔を見せて」

 ゆるゆると首を横に振ると、力なく短髪が揺れる。一瞬ためらい、その理由がないことをようやく理解した。この子は僕の特別だ。だから何でも知っている。僕を見つめられないことの方が珍しい、ならばそれほどの何かが起こっているのだと考えるべきだった。その問題から守ってやるのも僕だけの役目で。

「すずめちゃん」

 自分の喉から出てきたとは思えないほど弱々しい響きだった。天を仰ぐと、空を遮り生い茂る葉が水面に写った景色のように波打っている。もう長いこと、この子を前に口にしていなかった名前。本来なら毎日、何十回でも呼んでいたはずだった。

 そしてこれからは、ずっと続いていく日々のほんのいち風景となるのだろう。

「ごめんなさい、ぼく、ぼく失くしちゃったの」

 そうとはわからない泣き声は大きくなる。

「白蘭といっしょに探したけど、なかったよ。病院にも、ここにも。どこかに行っちゃった……キョーヤがプレゼントしてくれた指輪なのに」

 白く冷たい指から、僕が件のものを外した日をすずめちゃんは知らない。それでよかった。そんな時間が確かにあって、僕たちがそこを通り過ぎたことなどこの先永遠に。

「せっかく元気になったのに、あれがないとだめだもん……ぼく、もう……」
「泣かないで」

 十年前の雲雀恭弥にこの時代での席を譲ったあの日に、草壁に預けてあったものはすでにこの手にある。彼が待ちきれずに常に持ち歩いていたのは幸いだった。こうしてすぐに返してあげられる。

 背中にしがみついていた手をほどき、元通りに――右の薬指にシルバーの指輪をはめた。よく知る感覚にやっと顔を上げたすずめちゃんの頬はやはり泣き濡れている。しかし驚きに見開かれた目はやがて喜びに染まるだろう。

「もう、君が泣く理由はなくなったよ」

 手の甲で涙を拭ってやると体温と柔らかさが伝う。そろそろと僕を見上げた目は、星が沈んでいるのかと見紛うほど綺麗に輝いていた。

 手を伸ばせば届く場所で、確かに。

「おかえり」
「……うん! ただいま!」

 そうして抱きしめたのは、世界でいちばん可愛い笑顔だった。

 ***

「キョーヤ、早く、はーやーく!」

 急かされるまま靴を片づけていると、目の前で飛び跳ねるすずめちゃんが真新しい革靴を履いているのに気づいた。夕方に制服といっしょに届けられた一式を着ては脱ぎ、着ては脱ぎを繰り返した後だと言うのにまだ飽きないらしい。

 この姿を見て驚く人間が何人かいるのかもしれない。しかし誰もがその後に似合っていると頷くだろう。もうすぐ並中の一年生になるすずめちゃんは今までより少しだけ大人びている。その仕草も笑顔も変わることなどないままに。

「もうすぐ真っ暗になっちゃうよ、それまでに屋上に行こうよ」
「屋上は逃げないよ」

 マフラーとコートを被せながら、今にも走り出しそうなところを抱きとめた。学校でデートだと、それだけ伝えたせいでこんなことになるのが薄々察せたのを黙殺しなければよかったのかもしれない。けれど、大好きな星をたくさん見られるというのを直前に知らせたときの驚きようをどうしても眺めたかったのだから仕方ない。

「少し寒くなるよ」
「キョーヤがいっしょだから大丈夫!」

 逸る心のまま外へ駆けていってしまうのを追って扉を開けた。雲ひとつない夕焼け空、きっと綺麗な流星群が見られるはずだ。

「おいで、すずめちゃん」

 差し伸べた手を握るのは小さな手。

 これからずっと共にある、大切な子の手だった。