05

 よろよろとシリンダーに歩み寄りすずめちゃんは底を見下ろした。人間ひとりが十分収まるほど大きなそれの中では、海藻のように揺蕩う黒く太いケーブルが数本伸びている。先端は点滴の針に似ているが繋がる先はない。

 その透明な水槽の向こうに長身の男が立っていた。白い髪の下ではひと好きのする笑みを浮かべているらしいが透明な円柱を挟んだそれは歪に引き伸ばされ原型を留めない。

「うさちゃんだ小鳥さんだと言われても君はお魚さんなんだよ、すずめちゃん。ここから出たら長生きできない」

 背後の壁を透かした幻。白蘭はそんな曖昧な姿でも構うことなく足音を立てて回り込んできた。そうして膝をつく様子は小さな子どもを相手にする以外の意図を見い出せず、同時に僕たちを嘲笑う意思などない。すずめちゃんは一歩後ずさるだけでそれ以上動けなかった。また僕の後ろに逃げることもできないのを抱きしめると、ほんの少しだけ強張った肩を緩めて。

「昔、むかーしのお話だよ。とある小さなマフィアAは、ボロボロに弱ってたマフィアEを倒したんだ。Eでは子どもたち相手に怖ーい実験をしてた」

 柔らかな声、おっとりとした口調。ここがブルーベルの作り出した幻覚の中でなければすずめちゃんは夢中で聞き入っていただろう。存在自体がおとぎ話のような男は、輪郭のない人差し指でくるくると円を描きながら続ける。空調が低く唸る音を背景に。

「その研究をAは引き継いで好き勝手に弄くり回したんだよ、強くなるためにね。何だったかな、動物に変身できる人間を作るだとか」
「……そんなことを話して何がしたいんだい」
「すずめちゃんの延命」

 ――そのひとことだけは現実味のためか酷く浮いた。優しく細めた目ですずめちゃんを見つめる白蘭は違和感を自覚しているのだろうか。

「今から十年前に実験は一度成功したんだ。けど残念、雀に変身できるようになったその子どもは新米スタッフの持ちものを奪って飛んで逃げちゃった……っていうことまで律儀に記録に残ってた。まぁ表向きは世間様に貢献する普通の会社だもん、そんな昔話は厳重に隠し通してたけど」

 恐らくこれは白蘭が過去に併合したマフィアの話だ。骸や犬の話とも辻褄が合う。

 すずめちゃんはどこか遠く、僕が知りもしない場所からやってきた。自分が完全に壊される前に逃げてきた。――そして容易に想像がつく。そこまで歪められた人体が何のメンテナンスもなしに生きながらえることはない。そして腕の中の小さな温度がやがて鼓動とともに消えていくことも、今の僕にそれを止める手立てがないことも。

 未来のすずめちゃんを完全に蝕んだのは病などではなく、時間をかけて成された過去からの呪いだった。

「えんめいって、何……?」
「命を助けること。僕は君を助けたいんだ」

 とっさに反応するより早く、白蘭の手はすずめちゃんの頬をなぞろうとして止める。もし実行されたとしてもそれを叩き落とせなかっただろう。今日までの露悪的とも言える語り口とは裏腹な慈しみ――または哀れみしか感じられない指。善良な人間が、傷ついた小鳥を可哀想に思って手を差し伸べる普遍的な温もりが確かにあった。

「君はこの中でぷかぷか浮かんでないといつか死んじゃうんだ。お薬で体をいっぱいにしないとね」
「……お薬……」
「これと同じ設備を用意してあげる。そこにずっといれば安心だよ。ヒバリくんたちにだって会いたいときに会える……水の中からだけどね」

 すずめちゃんが白蘭から逃れることはなかった。代わりに見せたのはうつむいて黙り込む、あの仕草。けれど今だけは様子が異なった。無意識に自分を周りから――僕からすら切り離してしまう、閉じた思考。葛藤だった。僕の、彼らのそばにいるためには遠くにいなくてはいけない。そうしなければ日常とも呼べない日々の中にさえ残れない。唐突に提示された矛盾に満ちた選択肢を前に、すずめちゃんは僕に助けを求めることも忘れて。

「どうしてもいなくなっちゃうこの子を繋ぎ止められるなら、こんなに素敵なことはないよ」

 微かなことばは、僕の方を見据えた白蘭のものだった。先ほどの問いに今ごろまともに答える気になったらしい。胸の前で両手を握り締めるすずめちゃんの肩へ励ますように置かれた手は次いで自らの口元を隠した。その下で唇は笑んでいるのだろうか。

「がちがちに固まった筋書きを変える。そうすれば僕が時間を支配したんだと思えるんだ。ひと助けもできて一石二鳥!」
「……君のメリットはそれかい」
「そうだよ。だから僕としてはぜひうんと言ってほしいな」

 ――この男が何をしたいのか、その一端が見えた気がした。変わらない、変えられない平凡な毎日を打破するきっかけを欲しているようにも、続く日々そのものを壊したがっているようにも感じる。享楽的な言動の裏にある破滅的な願い。それをほんのひとときでも叶えるのがすずめちゃんの存在なのかもしれない。死から逃れられないはずの人間を救えたなら白蘭にとっては天にも昇る心地だろう。聖人もかくやの善行を働いたこと……はおまけのようなもので、彼にとって大切なのは全能感に浸る達成感。

 日々。

 僕の日常に欠かせなくなったそれは、小さな子どもの形をしている。いきなり現れたところに出くわして、気まぐれにそばに置いた。簡単に抱き上げられる体。柔らかい頬。怖がりで、よく潤む目はいつだって僕を見つめる。頭を撫でると嬉しそうに笑った。その両脚で元気に走り回った。僕を呼ぶ声は明るくて、沈むことがあればすぐにでも気を取り直してほしくなる。繋ぐ手は温かい。その温もりも何もかも失いたくない。

 なぜ?

 わかりきっていることだ。 

「すずめちゃん」

 ぴくりとも動かなくなった肩に触れる。

 約束された未来などない。気休めも言えない。僕は正直な感情しか持っていない。僕には、これしかことばが見つけられない。

 やっとの思いで振り返った目を見据えて。

「ここにいて」

 これは懇願だった。白蘭の誘いを蹴ることで生じる不都合もすずめちゃんの意思もすべて切り捨てた子どもじみたわがままだとも言える。このことばに何の迷いもない。あるのは戸惑いだ。答えのある戸惑い。

 いつから雲雀恭弥は他人に思うまま強いることを踏みとどまるようになったのか。それはこの子が大切で、慈しんで、その奥にある想いに気づいたときからだ。

「君が好きだよ」

 それを表すのにはこのひとことで十分だった。

「だから行かないで」

 ことばと時間を咀嚼する、ゆったりとした瞬き。
 
「……ぼくね」

 ――いくらかの沈黙を破ったのはすずめちゃんだった。淡く消え入りそうなことばは途切れ途切れになりながらも完全に失せることはなく。混乱のさなかでそれでも僕だけを見つめる目は、輝きを忘れてなどいない。

「あの日からキョーヤがいなくて悲しかったよ。キョーヤくんがいなくなったときも。だからキョーヤにも、みんなにも会えて本当にほっとしたの。いっしょじゃないと、やだ」

 白蘭を振り向く仕草に、ためらいはなかった。

「キョーヤが好きなの。だからぼく、行かないよ」

 僕の手を握りしめて、すずめちゃんは確かにそう言い切った。

 その手を強く握り返す。聞きたかったことばだ。すずめちゃんを手放せるなどと何があっても思うはずがない。僕にも、未来の僕にも別離の痛みに慣れる日など永遠に訪れない。

「僕から離れないで。君はずっと僕のそばにいるんだ」 

 白蘭が頷き、立ち上がる。その表情に思惑を否定された苛立ちも怒りも浮かんではいなかった。ただ微かに、残念そうに下がった眉だけが読めない彼の笑みへ唯一色をつけている。

「わかった。それじゃあ今の僕にできるのは君たちを見送ることだけになるね」
「……意外だね。僕たちをあっさり帰す気なのかい」
「それはそうだよ。今のヒバリくんはチョイス的にはベンチにいるも同然だし、すずめちゃんにこれ以外の用はないもん」
「第一印象は無差別殺人の主犯のようなものだったけど」
「まさか! 僕ははじめからすずめちゃんを荒事に巻き込む気なんてなかったよ」

 ここにこの子を連れてくるなと警告してきたのは確かに白蘭だ。目の前で未だに心残りを滲ませながら視線を落とす男は、目的の外にいてなおかつ邪魔をしない存在にはひたすら常人の倫理観を向ける。どちらが本当の彼なのか、今はわからない。

「君は幸せだね、すずめちゃん。僕は、どうにもならないものに人生を狂わされた人間をたくさん見てきたし手を差し伸べてきた。君が君のままでいられるのは周りのみんなのおかげだね。だから僕の介入は必要ないんだ」
「……ぼくも、そうなの? あなたも?」
「僕は違うよ、真逆さ。何もない、平坦な世界にいたから」

 すずめちゃんの頭を撫でた実体のない手のひらが離れていく。暗がりに溶けていくように急速に薄れる体を目で追いながら思ったのは彼との共通点だ。狂気と例えるには似つかわしくない、そう思えるほど白蘭の行動は僕からしたら理にかなっていた。

「退屈がひとを殺すというのは僕にも理解できるよ」

 すべてはそれだけだ。僕と彼とはその空虚を埋める手段が違った。僕のそれは、全く別の存在に生まれ変わって今ここにいる。驚いて白蘭を見つめるそこにはことばもなく。

「そう。リップサービスでも嬉しいよ」

 もう声ばかりがはっきりしている彼は事実嬉しそうに言い残し――いや、もうひとつ言い捨てていった。

「足元、気をつけてね。ブルーベルがこっちに戻ってきたからここの幻覚も直に消えちゃうんだ。それじゃバイバイ!」
「ここ……って、この建物の? あ」

 すずめちゃんが驚いて床に目を落とす。その拍子に前のめりにバランスを崩した体をひと足早く支えたのは華奢な両手だった。息を呑む微かな声は、幻覚の向こうから現れた第三者のもの。

「すずめちゃん……っ」

 焦ってすずめちゃんの襟を引っ張り戻した彼女は、ビルの屋上に立っている。気づけば辺りは冷え冷えとした知らない研究所などではなく元いたコンクリートの上だった。すずめちゃんを抱えてほっと息をつくクロームの肩にはすぐ白いフクロウが飛び乗ってくる。

「クロームちゃん! 来てくれたんだ!」
「強い気配が一気に膨れ上がったのがわかったの。間に合ってよかった……あの、ボスから召集。早く戻らないと」

 急かす彼女が僕たちを誘導して地上を目指す間、フクロウはひとことも発することはない。六道骸は別の場所に意識を移しているようだった。その証拠か、すずめちゃんはその鳥を怖がることなく興味深く眺めることもできている。

「雲のひと、チョイスは無効になったって……」

 だんだんと機能を回復していくヘッドセットから、ちょうどクロームが話すのと同じような通信が飛び込んでくる。白蘭の狙いが本当ならば並盛はあれ以上に荒らされるはずだ。彼が苦痛のまま生きることから救われるためにまず必要なのがボンゴレ、ひいては並盛の破壊だということはわかる。そしてそれを黙認するかどうかは全く別の問題だった。

「すずめちゃん、まだ走れるかい」
「大丈夫! もう一回屋上まで行けちゃうよ!」
「……行かなくていいよ」

 息を軽く上げたのみのすずめちゃんは断言し、笑った。元気なそれにクロームが小さく笑みを見せたのと同じくして、ビルの出口が見えてくる。

 長い間、すずめちゃんらしいあの輝く笑顔を見ていなかった気がする。今は明らかに危機的状況だというのに去来するのは穏やかな安堵だった。

 ――それを粉微塵にしたのはディーノの大音量だったが。

「恭弥! すずめちゃん! ふたりとも無傷だな? 無事だな!? いきなり通信が切れて……」
「うるさい」

 *** 

「……はじめまして。あなたが、雲の守護者」

 ――忙しなく戻ってきた並盛の地でその声を聞いて、この少女は誰なのかという疑問よりもやはり彼女だったのかという納得が勝った。すずめちゃんがこの時代に飛ばされる直前、通話を試みた酷いノイズ混じりのことばはユニのもので間違いない。

 努めて冷静であろうとしながら、自分がこの状況の渦中にいることへの緊張と不安と、巻き込んだ者たちへの気持ちでその表情は強張っている。しかしそれをわずかながら溶かしたのはすずめちゃんだった。「キョーヤがしてくれるの」とわざわざ前置きしてユニの手を握り、脱出の間彼女にぴたりとくっついて離れなかった。僕と同じようにユニとは初対面のはずなのに構うことなく。

「君の言ったとおりだったね。大変なことになった」

 彼女が警告したとおり。それでも今は、僕の日常の欠かせないピースが隣にいた。

「でも、すずめちゃんはここにいる。ご覧の通りぴんぴんしてるよ」
「ご覧の通りだよ!」
「……はい!」

 僕たちに向けられるユニの笑顔に、周りの人間が肩の力を抜くのがわかる。

 きっと彼女は自身の力の影響で、すずめちゃんの生い立ちも最期もわかっているのだろう。その上で、この子が心のまま僕のそばを選んだのを喜んでいる。

「ね、ユニちゃん。また今度遊ぼうね」

 背後のツナたちが全員の安否を確かめ始める僅かな間にすずめちゃんはこっそりと声を潜めた。

「ランボさんとイーピンちゃんと鬼ごっこしてたんだけど途中で終わっちゃったの。だから次はいっしょに……おっとっと」

 すずめちゃんが躓いたのは一見金属の部品のようだった。神社の境内に似つかわしくない手のひらサイズのメタリックな円盤は地中に埋められている。人為的なものだとわかるのは、几帳面に地面と平行に据えられているからだ。転びそうなところを踏みとどまってほっとするすずめちゃんとは対照的に、ユニはそれを見て息を呑む。

「リングに対応した装置です。ブルーベルがあなたたちを幻覚に閉じ込める補助をしたものと同じ……放っておけばまた撹乱に使われてしまいます!」
「じゃあ壊さなくちゃ!」

 並盛に散っていたミルフィオーレの先遣隊が設置したのなら、ここにあるものだけではないだろう。すずめちゃんが慌てる目の前で、薄い装置を踏み抜いて破壊した。耐久力はないらしくこれならばさほど苦労はない。

「ぼく行けるよ。これをたくさん壊してくる。キョーヤは学校が大丈夫か見に行くんでしょ?」
「……ひとりでは行かせない」
「大丈夫。白蘭はぼくのこと放っておくはずだもん」

 話を読めないユニが目を丸くするのをよそにすずめちゃんはポケットから匣を取り出した。僕の言いつけを守らないそれには、もう不安はない。

「バニラもいっしょだよ。ぼく、キョーヤの大事なものも大事なんだから」

 何もかもに僕だけが対応するには手が回らないことを、ちゃんとわかっている。白蘭のことばを鵜呑みにする気はない。しかし僕たちを守ろうとしてくれる気持ちを汲みたかった。ここで二手に分かれるのは僕たちがこれからずっといっしょにいるための戦いだ。

 どこか期待に満ちた目で僕を見上げるすずめちゃんを、その望み通りに胸に抱き寄せる。

「……忘れないで。君は僕の宝ものだ。僕のところに帰ってくるんだよ」
「うん!」

 いつもの笑顔で、すずめちゃんは頷いた。

「バニラ、起きて!」

 開かれた匣の力であの外套とガスマスクを纏ったすずめちゃんは彼らの間を「行ってきまーす!」とすり抜けて神社の階段を駆け下りていく。スパナの言うとおり生まれたてから何日か経過した子兎は意識がはっきりしているらしく、ツナたちが呼び止める声には反応しないながらその脚に危ういところはなかった。

 先日とは明らかに意識レベルが異なる活発さに呆然とする彼らは慌ててこちらを振り向く。

「ちょっ……あれってすずめちゃんの匣!? 誰が!?」
「僕だよ」
「えぇー!?」
「話は後でこの子に聞いておいて。僕は学校を見に行く」

 ユニを示し、草壁や勝手についてくるディーノの声を背に受けながら並中を目指した。

 何もかもが片づいたなら、またすずめちゃんの居場所になるところのひとつだ。何にも脅かされることのない時間を過ごす場所を得体の知れない人間たちに好き勝手許すわけにはいかない。