07

 使用人、出入りの庭師、構成員、などなど。広間に小さく人だかりができている理由はすぐにわかった。自室から出たその瞬間に苦笑してしまう。

 聞こえてきたのは軽やかに跳ねるピアノの音、それに柔らかく重ねられる篠笛の音。……をどこか引っかかりながら追いかける涼しい金属音は、最近あちこちで使われ始めたトライアングルという楽器だろうか。そして恐らくは正しいリズムを刻めていない、スペイン土産のカスタネット。

 楽器の国籍はバラバラ、技術は両極端。しかし演奏する者も聞く者も楽しそうにしている。やがて不定期開催の演奏会が終わり、盛大な拍手の後にその場に残ったのは予想通りの四人だった。ピアノの前から、笑顔で仕事に戻る聴衆に手を振っていたナックルは階段を降りるこちらに気づく。

「やっと片づいたか?」
「あぁ。話をまとめるのにここまでかかるとは思わなかった……」
「プリーモもそろそろ休憩でござる。確かまだ煎餅が……」
「あ、それは俺様が全部食べちゃったものね」

 トライアングル担当が反省の色もなしに舌を出すのを、雨月はからからと笑って許してしまう。それに異を唱えたのはカスタネット担当だ。カタカタと鳴らしながら頬をふくらませる。

「雨月はランポウに甘いよ。もう、ぼくも食べたかったのにー」
「ごめんごめん。代わりに俺さまとっておきのビスケットをたくさん置いといたものね。プリーモは、今から食べるでしょ」
「そうだな、いただくよ。みんなもいっしょに」
「じゃあ、さっそくお茶の準備だね!」
「ありがとう、頼んだぞ」

 マリーナは意気込んで立ち上がり、ついでにランポウの手を引いて連れていく。「何で俺様もー?」「力持ちなんだもん、お願い」と言い合いながら厨房を目指していく年少者ふたりを、ナックルも雨月もやれやれと呆れながら見送った。

「毎度毎度、仲がいいんだか悪いんだか究極にわからんな」
「あれは仲良しでござろう。ランポウはああ見えて満更でもないのでござるよ」
「もう恒例行事になっている気がするな……」

 各地の連絡員を相手に、机について何時間も議論を重ねていた体を軽く伸ばすと節々から悲鳴が上がる。ますますふたりが用意するティータイムが待ち遠しくなってきた。

 ランポウは守護者ではあるが、そうではなくかつ同年代のマリーナとの位置関係はあいまいだ。だからこそ対等なやり合いが成立しているかといえば、きっと全く関連はない。例え何十もの年齢差があってもふたりは気が合っていただろう。

「俺はDに声をかけてくる。確か資料室に籠もりっきりだったはずだ」
「では、拙者はGでござるな。倉庫が何とかと言っていたでござるね」
「プリーモは先にふたりのところへ行っておいてくれ。後で追いかける」

 ナックルと雨月がそれぞれ二階と表へ散ると、残るはアラウディ――とはいかなかった。彼は自国の任務でここにはいない。長い間対峙してきた武器の密売組織は各拠点の解体が進んでおり、この地域でアラウディが直接出向くべき案件は減ってきていた。

「そろそろ来てくれないとあの子が寂しがるだろう……」

 ひとりごとを聞く者は廊下にはいない。兄から贈られたカスタネットをエプロンドレスのポケットにしまって持ち歩くほど、マリーナはそのお土産を気に入っていた。アラウディに聞いてもらうのだと張り切っていたのを知っているからこそ、彼には早くここを訪ねてほしい。

 ランポウとのことといい、誰かが誰かと親しくしているのを見るのは嬉しい。アラウディとマリーナの間にあるどんな事情も、その観点で言えば全く気にならなかった。ふたりはお互いが大切で、それだけで十分だ。

「僕は君の兄になった覚えはない」

 ――温かな心持ちは聞こえるはずのない微かな声に吹き飛ばされた。窓から身を乗り出して庭のテーブルを覗くと案の定、久々に会う黒衣の後ろ姿がある。

「いつの間に!」
「さっき君の右腕がしかめ面で通してくれたよ」

 背後からかけた声に驚くこともなく涼しい顔でアラウディは振り返る――なぜかその両手で、バランスを崩して背をもたせかけるマリーナを支えて。不出来な積み木遊びのような有り様を前に、ランポウは片手にビスケットの箱をもう片手に彼女の腕をと不自然な体勢で硬直していた。こうして近づいたところでますますわからない。

 前もって用意しておいたものを持ってきたのだろう、白いテーブルの脇に寄せられたワゴンには湯気を立てるポットやカップが乗っている。それらが散乱していないことからして大惨事は免れたらしい。

「何が起きた……?」
「マリーナが急にふらついたものね」

 ランポウが固い表情で答える。一方、話に上る彼女はぽかんとしたままでことばもない。ふたりに助けられ、怪我はないらしいが意識もないと錯覚しそうになる無反応は見過ごせなかった。アラウディにされるがまま椅子に落ち着くのを前に膝をつくと、軽く見開かれた目はしばし宙を見つめ――不意にぱちりと視線が合った。

「ジョット……? プリーモ? あれ?」
「よかった、気づいたか」
「びっくりさせないでよ……君、いきなり倒れそうになったものね」

 その場に座り込んでしまう彼のことばを、マリーナは飲み込めていない。アラウディは軽く息をついて、いつもより輪をかけて白く見える頬に触れた。すぐ隣の席をさらに引き寄せて腰かけながら額へ、首筋へと移動する彼の手のひらをマリーナは大人しく受け入れる。ランポウはどこか不服そうに。

「ぼく熱なんてないよ」
「目を閉じて」

 噛み合わない会話。それをとくに気にもせず言うとおりにしたマリーナの目元を、アラウディは手で覆う。一瞬の暗闇が彼女を包み――その体は一気に脱力した。

「マリーナ!?」
「眠っただけだよ」

 傾ぐ体を難なく抱き留めて、アラウディは「短くなってる」とこぼす。わけもわからず彼の腕の中に収まるマリーナを覗き込むが、寝顔が辛そうではないこと以外は何もわからない。

「ほんの少しずつこの子が自分の不調を把握できなくなってるんだ」
「そうだ、まだ仮眠の時間じゃない……病気が酷くなってるのか?」
「……どうかな」
「そっか……兄貴でもわからないくらい難しいこともあるよね」

 膝立ちになるランポウは手を伸べ、投げ出されたマリーナの手に触れた。そっと包むようなそれにアラウディは視線を投げるも、口を出すことはしない。

「俺様、ずっと前にマリーナが具合悪くしたときにいっしょにいたでしょ」

 柔らかな指を確かめるように、ランポウは指先でたどる。沈んだ声は小さく、そばにいるというのに聞き取るのがやっとだ。

「びっくりしたし、悲しかったものね。いつも元気でにこにこしててほしいのに、何もしてあげられなくて」

 ことばは違えど、この場の誰もが同じ気持ちだろう。とくに、アラウディは。先ほどからマリーナを抱く腕に力が入ったまま解く気配もない。ほんの微かに開いた唇を見つめる視線のせいでその表情は伺い知れないが、穏やかではないに違いない。

 もどかしい。彼女自身にすら気配を悟らせない病魔がいるのはわかっているというのに、何の手立てもない。こんな想いを、この子の兄はどれほど昔から抱え続けていたのか。歩みを歩みだとわからせぬほどゆっくりと、影はマリーナに迫っている。その足を止めることも、間に立ちはだかることもできない焦燥をアラウディはすでに味わっていた。それを表に出そうとしないだけで。

 きっと、そうさせるのは彼女の存在なのだろう。自分のことで周囲が曇るのを、マリーナは己など二の次にして悲しむ。そして手間も心配もかけると気に病む。そう汲んで。

 どんなに痛むだろうか。アラウディにとって彼女はもはや半身だった。マリーナを蝕む病が真に牙を剥いたとき、どうなるのかはわからない。しかし想定し得る最悪の事態が起きたそのとき、文字通り体を寸断されるほどの苦痛があるに違いなかった。

 いつか、彼女を見つめていた優しい目を思い出す。あんな表情をして、あんなにも愛おしげに触れていた男が、マリーナを失って正気でいられるとはとても思えない。

「……苦しくない、そう言ってた」

 アラウディが、癖のない綺麗な黒髪に頬を寄せる。木漏れ日で艶めくそれは、場違いに緩やかな風に揺れた。

「不便だけれど、痛みはないらしい。居合わせた人間を驚かす方が嫌だとも」
「マリーナらしいものね。それなら、主役は突っ立ってたらだめだね」
「休憩に主役も何も……」

 ランポウに視線を向けられ、ようやく自分だけがそうしていることに気づく。後から来る者たちは訝しむだろう。それはマリーナの本意ではない。

「部屋に連れて行くよ」

 アラウディが彼女を膝に乗せ、抱きあげようとする。そのとき、深く眠っていたはずのマリーナの瞼がゆるゆると開き、瞬きを繰り返すのを確かに見た。ランポウとともにほっと肩の力を抜いて、頬にかかる髪を払ってやる。くすぐったそうに目を細めはしたものの、浮上したばかりの意識ではやはり反応は朧気だ。

「よかった。マリーナ」
「……ジョット」

 広間にいたときとは打って変わってぽうっとしている様子はどこか可愛らしいものがある。――などというただの感想を読んだとでもいうのだろうか、アラウディは不意に彼女をさらにきつく抱きしめた。むにゅむにゅとことばにもならない声を上げてマリーナが身じろぐのも構わず、髪を撫でて。

「兄さん、兄さん」
「うん」

 酩酊したようにふわふわと輪郭のない甘い声にアラウディは応える。ただの相づち、そこにどうしようもないほど詰め込まれた安堵を感じた。彼は表に出さないのではなく、出せないのだ。いつかマリーナの瞳が閉ざされたまま永遠に見られなくなることを心のどこかで恐れていることを感づかれないように。彼女を守るのだと決めた兄は、それを弱さではないと知る周りが許したとしても自分に許さない。

「アラウディ。俺は……力になりたい」

 アラウディが視線だけをよこす。鎧でも纏っているかのように、彼の胸中は伺うことが難しい――しかしここにいる、よく当たる直感を持つ男は例外だ。叶うなら今すぐにでもマリーナを国へ連れ帰って閉じ込めてしまいたいと、そんな衝動を他でもない彼女のために押し殺しているのは明白だった。手の届かないところで取り返しのつかないことになるよりは悪者に徹しても構わない、そしてそれをマリーナがアラウディ自身のために拒むことをわかっている。そんな想いの板挟みになっていることは。

「ずっと前から俺たちは仲間だし友だちだろう。ふたりが本心を隠すのは仕方ないとわかってる、そういう立場だからな……けど、辛いんだろう? それくらいわかる。俺にも背負わせてくれ」
「簡単に言うものだね……自分から厄介ごとを引き受けると?」

 アラウディはことばの上でだけは揶揄する。そして「関係ないことだ」などと拒絶しなかった。彼女の背を優しく抱き寄せ、確かに頷いて。

「……君になら、託せるのかもしれない。ジョット」

 それは、自分よりもマリーナの方を助けてほしいという意思の表れだった。

 そして、まだ遠い未来のことなどわからない彼女、または彼女たちのための選択でもある。

「アラウディ、好きだよ……もっといっぱい、こうして」
「……兄貴が羨ましいものね。俺様だってマリーナのこと助けたい……」

 とろりと幸せそうな、ぽそりと拗ねたような。それぞれ異なる事情で年長者の会話をまだ汲みきれない正直さに思わず笑みがこぼれたところで、背後に複数の話し声が聞こえてくる。そろそろマリーナをしっかり起こしてやるべきだろう。完全に目を覚ました彼女が将来に渡って恥ずかしさで赤面しなければならないようなこの状況は、ここにいる三人だけで留めてやりたい。

「僕は君の兄になった覚えはないよ」

 離すものかとばかりにマリーナを抱きしめたままのアラウディをどう説得しようか。目下のところ、心配するべきなのはそこかもしれなかった。

 そして、ふたりの平穏のために何ができるか。それを見つけるのがとてつもなく長い道のりになることはわかっている。しかし、ともに歩いてくれる者たちを知っている。大切な仲間を守るための手段を模索することに不安などありはしなかった。