06

「本当にひとりで平気なの」
「平気だよ。キョーヤだって行かなきゃいけないんでしょ、次はどこだっけ」

 身支度を整えるすずめちゃんの顔色はよくない。けれど口調にそれが滲むことはなく、あくまでいつも通り振る舞うのに乗ることにした。眼鏡の向こうにある瞳はとろりとして力がなく、例の発熱が続いているのがわかる。治ったかと思ったら再発、を繰り返せばさすがのすずめちゃんも音を上げるしかない。風邪だと決めつけるにも限界があった。大嫌いな病院に行くのを決めたのは一昨日のことだ。

「香港だ」
「いいなぁ、今度はぼくも連れてって」
「もちろん。それまでに早くよくなるんだよ」

 にっこりと頷いてすずめちゃんは立ち上がる。すらりと伸びた手足に、真新しいジャケットとスラックスがよく映えた。可愛らしい装いばかり見ていたころとは様変わりして、こんな風に畏まった服装もよく似合うようになったのはいつからだろう。少し前に演劇部の助っ人を始めたころかもしれない。ドレスも燕尾服も着こなしているのを眺めているうちに、いつの間にか小さな子どもではなくなっていたようだった。

「おいで」

 鞄の中身を確かめているところを呼び寄せた。嬉しそうに畳の上を歩いて膝をつくのを真正面から抱き締めて、少し高い体温を確かめる。短く切った髪は相変わらず柔らかく、その感触を指先で楽しみなら撫でた。すずめちゃんお気に入りの香水は、もう残り少なくなったバニラの香り。

「本当に、大きくなったね」

 こうしていれば、全身でこの子を確かめることができる。今別れてしまえば次にここで会えるのは数週間後だ。保護者の感傷を、しかし被保護者はくすぐったく笑って受け入れるだけで。背中に回される両手が僕のものより小さいのは変わらない。ただひとつ、右の薬指を飾る指輪がすずめちゃんをもうひとつ大人に見せていた。

「どうしたの、キョーヤ? 何だかお父さんみたい」
「……そんなものになった覚えはないよ」
「わかってるよ。ぼくはキョーヤの特別、だもんね」

 ほんの軽く、すずめちゃんの唇が僕の頬に触れる。生意気にも先制していったのが憎らしくて、邪魔な眼鏡をぶんどって同じことを返してやる。一瞬視界を奪われて目を白黒させるのが可愛らしい。

「やだ、返してよ」
「やだ」
「もう」

 暴れようとするのを抑え込んで、再び――今度はきつく抱きすくめる。腕の中でもぞもぞと無駄な抵抗を続けるのがいじらしくて、可愛くて、離したくなくて、けれどそろそろ離れていってしまうのだと知っているから半ば意地になって拘束を止めない。

 眼鏡を傍らの机に避難させ、無防備な白い首筋に軽く唇を寄せた。滑らかな肌が過ぎた体温を伝わせてくる。野獣だ猛獣だと抗議する失礼極まりない声を黙殺し、間違っても傷をつけたりしないよう微かに歯を立ててやった。すずめちゃんを黙らせるにはこれがいちばん手っ取り早い。

 ――好きだ、と伝えるためのこれ以上の行為を僕たちは知らない。すずめちゃんは確かに僕の特別だ。だから泣き顔も怪我をするのも見たくない。けれど恥ずかしがるのと拗ねる顔は可愛くて大好きで、こうしてついいじめてしまう。

 被捕食者と化した被保護者の反撃はといえば少々過激で、隙あらばヘッドバットや背負い投げを狙いに来るのだが。一度も技が決まったことはないとはいえ、こんなに物騒なことを一体どこの誰に教え込まれたのだろう。

「これじゃいつまでも出かけられないよ」
「出かけたいの」
「……行かなくちゃいけないだけで、行きたくない」
「それなら、もう少しだけ」

 すずめちゃんが頷くのをいいことに、ゆっくりと畳へ押し倒した。頬に少しだけ朱が差して、多少健康的に見えるのが皮肉に感じる。今まさに診察に行くのを引き留めている最中だというのに。

 きょとんと目を丸くして、すずめちゃんは大人しくなる。今回ばかりは、あの日々と立ち位置が真逆だ。幼いすずめちゃんのように、今の僕は好意を手渡すのに何のためらいもない。相手が確実に受け取ってくれるのを確信しているからだ。

「可愛い」

 白い額にキスを落とす。

「好きだよ、すずめちゃん」

 どんなことばが返ってくるかわかっていて、それでも伝えるのは止めない。何度でも感じたいからだ。すずめちゃんの声で、目で、繰り返し。

「ぼくも、ぼくもだよ。キョーヤのこと大好き」

 花がほころぶ様そのものの笑顔を浮かべるすずめちゃんの両手に指を絡める。こんなことをしなくても、すずめちゃんはどこにも行かないというのに。その事実がただ嬉しくて、少しだけという自身が提示した条件などすっかり忘れるのに時間はかからなかった。

 簡単に両腕に収まる体をかき抱いて、胸に閉じ込める。離れている間、この香りを、温度を忘れたりしないように。