04

「当然だよ。あの子を連れ出すはずがない」
「そーか。それならいいんだ」

 もうここが日本のどの辺りなのかと確認するのさえ煩わしい、そう思えるほどには移動と戦闘を重ねた末。ディーノの今日最後の問いはすずめちゃんのことだった。

「一応は儀礼に則った戦いだからな、マフィアですらないあの子は巻き込まれないはずだ」
「そう」

 木陰に寝そべるのをディーノは止めない。それもそのはずで、今日は一段と疲労が溜まっていたからだ。山際をたどっていたはずがいつの間にやら斜面を上りながらの移動になり、最終的に地図には載らなさそうなささやかな滝壺の前に落ち着いた。

 一度体を休める気になったらもう起きたいとは思えなくなる。その点、人体のつくりは彼と共通していたようだ。

「誰にも手出しはさせないよ」
「……それ、誰にもってのにはオレも入ってんだよな」
「入ってないと思うなら相当おめでたいね」
「口の減らねー奴……」

 水の落ちる騒がしい音が、緑の中にいると穏やかな水音になる。ビデオカメラなど持ってくる気はさらさらなかったが、すずめちゃんに見せてやりたいと思った。きっと目を輝かせて見入っただろう。

 ***

 治りかけとはいえ無数の傷を隠せるはずもなく、それを目の当たりにした瞬間すずめちゃんはことばを失うほど落ち込んだ。もちろん負傷したのはこちらで、原因はディーノとの度重なる戦闘だった。彼も相当な数の怪我を抱えている。

 腹が立つのはそれだけではない。草壁に任せて数日家を空けている間に、どんな手品を使ったのかディーノはすずめちゃんと和解していた。通話か手紙か、とにかく何の素振りも見せなかったというのに。ボスの貫禄だと、ロマーリオという男は言っていたが。

「喧嘩じゃないのは教えてもらったよ。必要なことだって。ぼく、ちゃんとディーノくんと仲直りしたの」

 肩を落とすのは、理解はしたが納得はしていないのを如実に表していた。そうっと頬のガーゼに触れて剥がれかけを直す指は遠慮がちで、弱々しい。

「もう痛くない?」
「平気だよ」
「そっか」

 ほっと息をついても、すずめちゃんは離れたがらない。眠たげな目で起きていようと無言で意地を張るのを眺め――こちらが折れることになった。そろそろ寝かしつけなければそこらで倒れ込んでもおかしくない。もう真夜中といっても差し支えない時間に差しかかっている。

「おいで」

 ベッドに横になったまま上掛けをめくる。数秒の逡巡の後、すずめちゃんは頷いて隣に潜り込んできた。曇っていた表情がようやく落ち着くが、袖を摘んで離そうとしない。

「僕は帰ってきたでしょ」
「うん。嬉しい」
「何か心配ごとでもあるの」
「早く、綺麗に治るといいなって。そればっかり考えてたよ」

 身じろいで、すずめちゃんは窓を見上げる。閉じたカーテンの向こうには雲ひとつない星空が広がっていた。いつか図書室で熱心に読んでいた行事カレンダーには、七夕についても欠かさず書かれていた覚えがある。季節を問わず、願いごとは星にかけるものだと。

 祈りに意味を見出したことはない。けれどすずめちゃんの、ひたすらただひとりに向けられるそれには確かに温度があった。星とは違って、今こうして手を伸ばせば触れられる温かなことば。

 ――今までは、その存在すら認識の外にあった。向けられるものは畏怖か敵意かそれとも信頼か、大分すればそれだけ。

 そしてすずめちゃんは、普遍的に形容するならば「心配」を。信頼とともにいつだって心配してくれている。そんな祈りとは無縁だった、自分ひとりでどこへでも行けて何でもできるはずだった雲雀恭弥のことを。

 裏を返せば弱みとなる、けれどそんなことを抜きにして手放し難い。だからディーノの企みにも形だけ乗った。そう率直に思う存在が今ここでうとうととしている事実が不思議で、幸運で、なのに日常と化しているのが現実だった。

 これをどうことばにすればいいか、むしろする必要があるのか――一日の終わりの心身で思考すればするほど深みにはまる。この点でいえば、すずめちゃんが何枚も上手だ。感情をことばにして伝えることにいつだって正直で瞬発力があって、何のためらいもない。

 そのすずめちゃんに、あの温もりに報いる何かを渡せるかどうかわからなかった。だから返事の代わりに、髪をかき混ぜるように撫でる。気持ちよさそうに目を細めるのを見ていると、穏やかな眠気さえ感じた。

「治るよ」
「よかったぁ」
「……僕のことはおしまい。次は君のことを聞かせて」
「ぼくの?」
「僕がいない間、何か楽しいことはなかったの」

 睡魔を追い払ってまで聞いたのは、まだ声を聞いていたいからだ。男の子とも女の子ともとれる、メゾソプラノを思わせる響きが耳に心地よく流れ込むのを、それが自分だけのものになっているのを貪欲に求めて。

「楽しいことならたくさん! そうそう、ぼく哲さんといっしょに一日に二回も道案内したの。すごい偶然だよね」
「町の、かい」
「うん。ひとり目はねー……」

 考え込むように閉じた目のまま、すずめちゃんは芯をなくしそうになる声をぎりぎりこらえていた。先ほど寝かしつけようと思っていたのを自分勝手に撤回し、可愛らしいがんばりに聞き入る。

「お姉さんみたいな話し方のお兄さんだったよ」

 寝物語にしてはアクの強いものが来た。

「……結局、どっちだったの」
「わかんなかった。背が高くてがっしりしてたけど、サングラスしてたし、お化粧品をたくさん買いたいって言ってたし」
「それなら、行ったのはドラッグストアだね」

 ――考えても答えの出ない問題は後回しか放置に限る。

「うん、当たり。お礼にって、キラキラのシールくれたよ」
「そう。それなら、ふたり目は」
「可愛いお姉ちゃん。ぼくより大きくて、キョーヤより小さい子。お菓子を買うんだって」
「スーパー」
「当たり。お礼にって、麦チョコもらったよ」

 草壁もシールやチョコを受け取ったのだろうか。いや、後になってすずめちゃんに譲るというのもあり得る。彼からもこのことを聞くのも面白いかもしれない。

「いいことすると、いいことがあるんだね」
「……そうだね。きみはいい子だ」

 子犬にするように両手で頭を撫でる。満面の笑みでそれを受け取るすずめちゃんの表情からはいつしか不安は消え、ただ眠りにつく前の幸せそうな頬の色ばかり目に焼きついた。

「キョーヤ、明日は何があるかな」
「いいことがあるよ、君にはね……そのとき僕は出かけてるだろうけど」
「そうなの?」
「跳ね馬が言ってたことさ」

 詳しいことは聞かされていなくても、そのことばだけですずめちゃんは再び黙り込んでしまう。けれどそれは、何か気持ちを噛み砕いて飲み込もうとする仕草だ。僕をわかろうとしてくれるのが、わかる。

「僕が帰るまで家を出ないで」
「……ぼく、ちゃんと待ってるよ。お留守番くらいできるんだから」

 顔だけは得意げにするが、声色が寂しいと訴えている。まだ、その方がマシだった。明日の夜、どこの誰と戦うのかを知っていたならこの程度の反応ではなかっただろう――自分自身はっきり把握しているかといえば、興味もないのでそんなことはないが。

 とにかく、すずめちゃんが何も知らずに眠れるならそれでいい。怖い想いをしなければ、それで。笑顔でおかえりを言ってくれたら。

 こうも欲ばかりがあふれるのは、この子に対してだけだ。安らかな寝顔を見たい、けれどもっと見つめていてほしい、そんなことばかり。

「すずめちゃん」
「うん」
「……すずめちゃん」

 まだ眠るな、もっと起きていろと、そんなことを子どもに押しつけるのは間違っている。せめてと上掛けで包むように背中を抱き寄せると、すずめちゃんはとろけそうな笑顔でくっついてきた。この季節、ともすれば過ぎた熱さとなる体温が、今は欲しい。

「君が想ってくれるのと同じに、僕は君が大切だよ」
「うん」
「……君は、君に優しいものにだけ囲まれていればいい。だから、いい子で待ってて」

 腕の中で、黙って頷くのが伝わる。もう限界のようだった。このまま背を軽く叩き続けていれば、いずれ深い呼吸が聞こえてくる。

 おやすみを言う間もなかった。すずめちゃんのそれにつられるように瞼が閉じる。とろりとした、底のない甘い眠りが降りるまでそこまで時間はかからないだろう。