林檎の日

 

 彩声の目線は外れない。赤い頬。とろんと眠そうな目(これはいつも通り)。この一時間で三回ほど転びそうになった両脚。普段の三十倍は隙だらけの鞠音は、体育の授業のために着替えていた手を止めてぼんやりと突っ立っていた。体操着の袖から腕を出さないから、何やら変なオブジェと化している。柱に腕の模様が描かれた寸胴のトーテムポールのよう。

「部長、部長。どうしたの? 調子悪そう」
「んー……」
「あ、もしかして風邪? やだなぁ」

 冗談めかして彩声の手のひらがぴたりと貼りついた、鞠音の額。

「気持ちいい」

 呑気に感想を述べる彼女の横で、彩声の顔が険しくなり。

***

「で、保健室にぶち込まれたんですよ!」
「担ぎ込まれたの間違いじゃねぇの?」
「だってあの勢いですもん」

 想像に難くない。「何でこんなになるまでほっといたのよ!」と鞠音を半ば強引にベッドへ放り投げる彩声の姿が脳裏でスムーズに再生される。廊下で偶然遭遇した鳴子は心配げにスマホをぶんぶん振り回す。

「WIREも無反応ですし」
「寝てるなら仕方ねぇだろ」
「そうだけどー……」

 鳴子は「返事もできないほど苦しそうにしていたら」としょげ返る。さて、あれだけアグレッシブにデジヘッドを倒して回り楽士とも渡り合える帰宅部部長、それが目を回して横になる姿の方は全く想像がつかない。元気にしているところしか見たことがないのだ。鳴子の不安も頷ける。

「とにかく、今日の見回りは一旦中止だろ。俺は今から部室行くけどお前どうすんだ?」
「行きますけど、鼓太郎先輩は部長が……あ」
「何だよ?」
「何でもー」

 言いかけたことを止めるのも、楽しげにスマホをいじるのもいつも通りだ。ついて来る鳴子のことは置いて、部長のことばかり頭に思い浮かべてしまう。ちゃんと温かくしているだろうか、何か飲み物を持って行くべきだろうか。

 そのとき届いたのはアリアからのメッセージ。ふらふらの鞠音に頼まれて笙悟といっしょにいるらしい。こんなときまで部を気にかけなくてもいいものだというのに、律儀なことだ。

***

「行ってあげてください!」

 美笛の力説。

「これ、美笛ちゃんといっしょに作ったんです!」

 鈴奈が差し出す使い捨てランチバッグ。冷蔵庫から出したばかりでかなり冷えている。

 総合すると「これを持って部長のお見舞いに行け」と言われているらしい。鞠音の不調については鳴子経由で知ったのだろうが、わからない。

「俺だけでってのはどういうことだよ? みんなで行けばいいだろ」
「そりゃあ、ぞろぞろ大勢で行ったら騒がしいでしょ?」
「おう」
「鼓太郎先輩が顔見せてあげたら、部長とっても喜びますよ!」
「おう……? そうか?」

 疑問を挟む者は部室にいない。女子三人のこれまでにない圧は「まぁいいか」と気分を変えるには十分だった。とくに一年たちの目は熱が入っている気がしてならない。絶対に巴鼓太郎を向かわせるという決意を感じる。その後ろでにこにこと満足げな鳴子の様子は……単純に気になる。

「んじゃ、鈴奈。これ渡せばいいんだな?」
「はい! お願いしますね」

 ――部室から出た直後、ぱちんと聞こえた微かな音がハイタッチを連想させた。

「んだよ、何企んでんだカメコ?」

 戻って問い詰めるよりも、今は鞠音が先だ。階段を下りながらランチバッグを少しだけ開けると、覗いたのは林檎の、尖った耳のうさぎだった。そういえば昔、家庭科の授業で林檎の飾り切りの実習をした覚えがある。そのときは耳の長さも胴体の長さも不揃いと出来は散々だった。美笛たちとは違いすぐに食べてしまった、甘くて瑞々しい味だけは最高のうさぎ。

「綺麗に作るもんだな」

 差し入れにはありがたい。後はこれを問題なく食べられるか。

 引き戸を開けて閉めるのにこんなに神経を遣ったのは初めてだ。忍び足で入った保健室には教員NPCも生徒も見当たらない。並んだベッドのうち、一番窓側のものだけぴったりとカーテンが閉じられていた。結果的に午後の授業を抜けてきたことになるわけだから、外からは微かなざわめきも聞こえない。少しだけ傾いた太陽の光が差すばかり。

 いざ来てみて考える。これは開けていいのか? 開ける前にひと声かけた方がいいか? いやいや、それで寝てるのを起こしたら悪いし。けど寝てるかどうかわからない。というか寝顔ってのは見られていいもんじゃないだろ。いつもならぐだぐだ考えず「よう調子どうだー?」で終わっていたはずの一挙手一投足がこんなにももどかしい。

「あーもう、やればいいんだろやれば……鞠音」

 小声で気合いを入れ、けれどそろそろとカーテンを分けて中を覗き込んだ。パイプ椅子が傍らにある以外は普通の、白いベッドだ。ぐったりと寝込む鞠音がいることを除けば。

 寝返りで崩れてしまったのか、薄手の毛布は隅の方で固まっている。息は荒くないが、表情は苦しげだ。体は胸を静かに上下させる以外に動かない。瞼は開くことはなくて、もちろん見舞い客のことにも気づかない。

 声をかけることもできず、毛布を直してやって椅子についた後は何もできなかった。呆然としていたのかもしれない。(認めるのは若干抵抗があるが)間違いなく帰宅部で一番強い彼女が、こうまで弱っているのを目の当たりにして。昨日お菓子の取り合いをしたばかりなのに。そして琴乃にじゃれ合いもほどほどにしろと呆れられたばかりだ。

「じゃれ合いじゃねぇあれはケンカだ」

 思わず口に出たのを慌てて飲み込む。ちらと鞠音の様子を見るが、変わりない。小さく息をついて、目をそらして、やっと平静を取り戻す。それでも、辛そうなのを見ていると胸が潰れそうだ。

「なぁ、らしくねぇよ」

 届かないのを知ってはいたが、こぼしてしまう。あのときジャンケンでクッキーを勝ち取ったのは鞠音の方だ。結局一枚を渡してくれたときは、いつもと何も変わらない笑顔だったのに。

「早く良くなれよな」

 どうにもならないことをつらつらと。鞠音の額に貼りついた前髪を払う指先に伝う熱は確かに酷い。さっきまで冷たいランチバッグを持っていた手なら、いくらか助けになるだろうか。せっかくそう思いついたのに、手のひらを押し当ててこれは無理だと閉口する。

「……熱い」

 早く薬を飲むべきだ。けれど、その前に何か口にした方がいいことくらいは知っている。

「それ、鈴奈と美笛が用意してくれたんだと」

 手を返して甲で頬に触れる。柔らかい熱が、今はいたたまれない。普段頬なんて触らないから違いはわからないが――。

「普段触るかよ、しねぇよそんなこと!」

 手を引っ込めながら、思わず浮かんだ想像を慌てて振り払う。そんなシチュエーションにはなったことがないしこれから起こるはずもない。触りたいとも思ったことはない。今までは。

 だから、もっと触れていたかったともこの手を離すのが名残惜しかったとも欠片も思っていないはずなのだ。とにかくこの動揺から気をそらさないといけない。そう、今はやましい気持ちなんてあってはいけない場面だ。やましいって何だ。……ぐるぐると回り続けて疲れ果てた脳は、結局は落ち着くことに成功する。

「あー……置いとくから、食べろよ……」

 伸びている病人に言っても仕方ない。書き置きでも残しておくかと保健室を物色することにした。紙はどこだと浮かせかけた腰は――ふと振り向いた瞬間に戻っていた。

 目を丸くして鞠音が見ている。まっすぐこっちを。ぱちりと合った視線。確定的だった。ただ目を開いているのではなく。

「おわあっ」
「うわびっくりした」

 耳を塞ぐ動きは若干ゆっくりだ。さっきまで毛布に埋まっていた腕をぱたりと降ろして、首を傾げるのも。

「……鞠音……どっから起きてた?」
「……食べろよ、ってとこ? 多分……」
「おー、腹減ってたのかー! 仕方ねぇなー!」

 自信なさげな曖昧な表情が救いだった。もし気づかれていたらかっこ悪いことこの上ない。相棒はいつでも余裕であるべきだ。声が上ずらないように、そらす視線が行き過ぎないように。

「……そうだよ、林檎のことだ。食っとかないとな」
「ありがと。わぁ、可愛い」

 ラップに包まれたそれを見て、鞠音は小さく歓声を上げた。

「うさぎだね。四匹」
「鈴奈と美笛がな。俺は持ってきただけだ」
「鼓太郎も、ありがと……」
「おう」

 とろんと笑って見上げる鞠音の顔を見て、やっと肩の力を抜けた。眠っていたときよりずっと楽になったようで。

「それじゃあ、あーん……」
「あ?」

 前言撤回。まだ頭が混乱しているらしい。どこか楽しげに口を開けた鞠音の考えが読めない。いや、何を要求されているかはわかるけれど。こんなことをするタイプじゃない。……なかったはずだ。

「何だそれ」
「だから、あーん……あれ? 食べさせてくれないの?」
「くれねぇよ! そこまで面倒見切れるか!」
「今からずっと、わたしが家に帰るまで見ててくれないの?」
「はぁぁぁ?」

 寝返りして(また毛布がめちゃくちゃになる)、鞠音はこちらに向き直った。半目になって、眠たげなのか不満げなのか怪しい。

「だって、熱があるし」
「それにしてもだろ」
「多分ちゃんと歩けないし」
「……まぁ、そうだろうな」
「こんなところデジヘッドに見つかったら大変」

 論点がズレてるとは言えない。お前なら大丈夫だ返り討ちだろとはとても言えない。――思いっきり甘えモードになっている。これはどうひいき目に見積もっても本調子じゃない。もしかして風邪がこじれたのか。むしろそうであってほしい。

 鞠音の本性がこっちだとするなら、これから先心臓が持ちそうにない。

「ねぇったら、鼓太郎……」
「わかったわかった!」

 とろけそうな目で催促されて、もう後には退けなかった。小さく開いた唇に、うさぎの林檎を近づけてやる。

「後で覚えてろよ……!」

 仕返ししてやろうという気は、多分すぐ忘れてしまう。ベッドに埋もれる鞠音がしてやったりの、けれどとても嬉しそうな笑顔をしたから。

***

 仕方なく、本当に仕方なく手を引いて自宅まで送ってやり、みんなから届いたメッセージをいっしょに見て笑って、それじゃあとにかく寝ろよと念を押して別れた次の、そのまた次の日。

 俺が風邪を引いた。

「あちー」
「だめ、ちゃんと寝てなきゃ。はい戻して戻して」
「姉ちゃんみてーなこと言うなよな……」
「弟みたいなこと言わないの」

 ベッドから脚を出そうとするのを止めるのは鞠音だ。その辺から引っ張ってきた椅子に陣取って鞄を探りながら。午後の光が、その影を濃く落とした。ほっそりとした指のシルエットは、視界にちらついて奇妙に目を引いた。

 授業の後すぐにこの家に寄ってくれたというのは鳴子からのメッセージで掴んでいる。「完璧なスタートダッシュだったよ!」と嬉しそうな顔文字つき。何だか一昨日から策に乗せられてばかりな気がしてならない。

「林檎持ってきたからね、ちょっと待っててね」
「……楽しそうだな」
「気のせい気のせい」

 今にも歌い出しそうに、枕元から届く鞠音の声は軽やかだ。その手元でしゃりしゃりと音を立てて作られるのは、記憶に新しいうさぎ。膝に載せられた皿にぽろぽろと小さな欠片が落ちていくのを何とはなしに眺めるが、これは違うだろとだんだん察しがつく。うさぎ一匹にここまで犠牲は出ないはずで。

「はいどうぞ」
「ガタガタだ……」
「急いで作ったからこうなったの」

 反論する鞠音の指には、いくつか切れ込みの入ったパンクな耳のうさぎが摘まれている。輪郭がカクカクした彫像のような。もしかしてまだ体調が万全ではないのか……という考えは、せめてもの情けに残しておくことにする。

 そもそも病み上がりの体でここに来ることだって、褒められたものじゃない。けれどそれはあえて言わなかった。いつもの調子に戻っているのが見られてほっとしたし、単純に嬉しいものだ。とはいえ、それを悟られるのは気恥ずかしい。

「……そっちはどうなんだよ。ちゃんと熱は下がってんだよな?」
「うん。鼓太郎がいっぱい触ってくれたから治ったよ」
「は」

 何のことだと一瞬考え――すぐに合点がいった。あの日のこと。本人が寝入っていたのをいいことにしたこと、いや違う、この言い方は。

「起きてたのか!?」
「何のこと?」
「すっとぼけてんじゃねぇ!」

 きっと途中から目を覚ましていたに違いない。喚いても後の祭り、とにかく鞠音は知っている。自分が無遠慮に触れられていたこと。自分にかけられたことば。そのどちらも。

「嘘だろ……?」

 取り消そうにも遥か昔の出来事だ。どうあがいてもあの事実は消えない。けれどくすくすと笑うのに一切の屈託はなくて、あれこれ浮かんだ文句は散り散りになった。となると、次に来るのは自己嫌悪の類。心配や不安その他諸々のせいで考えなしに行動してしまったことへの。ここで恨みがましくしてしまうのはお門違いとはいえ、どうしても止められない。これはきっと風邪のせいだ。頭が溶けそうに熱いのも、それと同じくらい頬が熱いのも。

「……そうならそう言えよ、べたべた触られて嫌だっただろ」
「それは、ちょっとびっくりしたけど」
「へー」
「でも嬉しかったんだよ」
「あー、そーかよ……」
「だからじっとしてた。カーテンが開いたあたりから」

 今は何を言われても流してしまいたい――そんな投げやりな気分はあっさりとひっくり返された。ふたりだけのこの場で、取り繕うことばに意味がないことはわかっている。鞠音は申し訳なさそうな顔をほんの少しだけ近づけて、まるで内緒の話でもするように声を落として。

「心配してくれて、来てくれて……まだ鼓太郎がここにいるんだってわかるから、嬉しかった。わたしが起きるまでの間なら、そうしてくれるかなって思って」
「……俺は心臓止まるかと思うくらいビビったけどな」
「うん。ごめんね」

 りんごを食べさせろだの家まで送れだの妙なわがままは言えるくせに、まだ帰るなとは言えないらしい。バランスが常人とは明らかに違う。普通の高校二年生を見る目で鞠音を測ってはいけない。

「これからはしてほしいときに触ってって言うから」
「やめろやめろ!」

 ほら見ろ。

「そうじゃねぇ、そこじゃねぇよ……」

 これ以上病人に声を張り上げさせるなと、肩に置いた手で伝わればいい。怠い身体を起こすと、鞠音は見上げる側になった。優しい目を少し見開くのが近くで覗き込める。普段は身長差のおかげでこうはいかない。思えば、強いとはいえ同時に華奢な女子だ。弱点が見えづらい小さな後輩。

「あいつらに見つかるとか、帰り道がどうとか言ってたの、ほんとのことだろ。具合悪かったのも」
「うん」
「これからはナシだぞ、寝てるとかああいうフリすんの。お前が元気になるなら、してやっから。いつでも」
「……うん」

 ほころんだ笑みが広がる。それを見るだけで、喉に滞る熱が風に吹かれるように和らいだ気がした。弱って辛そうな表情なんてやっぱり似合わない。座を譲ってやった帰宅部部長はこうでなければ。それに一役買えたなら、この風邪も悪くないのかもしれない。

「鼓太郎」
「おう」
「ありがと。大好き」

 うさぎの口先が、唇に触れる。