怒鳴り散らす声がする。悪態で返す声がする。その様子を面白おかしく言いふらす声。誰にも聞こえないため息。すすり泣き。音ばかりが、きつく閉じた暗い視界に積もっていく。
そう遠くない未来、頭の先まで隙間のないミルフィーユになるのだろう。お腹の中まで侵食されたら呼吸もできなくなる、そんなことをお構いなしに喚き立てる声は増していく。湿って重い泥同然になって、かき分ける手も無力だと思い知らされる。
逃げようとする足は、すでに太腿まで飲み込まれていた。
「わたしを閉じ込めないで」
張り上げたはずの声は誰のもとにも届かない。
そろそろ眠ることを諦めないといけない頃合いだった。いつの間にか強張っていた目元を軽く揉みながら仰向けに寝返りを打つ。
ちらと見た壁掛け時計は真夜中を指し示す。白い文字盤の上を、細長い針が硬いリズムで回り続けていた。
――あれは全て、メビウスでのことではない。あの音に埋もれて息をするのもやっとだった現実の記憶。
激しく窓を打つ強風は未だに止まっていなかった。カーテンを少しめくると横殴りの雨は収まっていたが、街路樹はその葉を散らさんばかりに煽られ続けている。深夜の闇の中、街灯の心許ない明かりに浮かぶそんな様子がここからでもよく見えた。
外がこんなだから、また悪い夢を見たんだ――いや、多分関係ない。どんなに天気が凪いでいても穏やかな幻想は滅多に現れない。自分の神経がここまで細いことをまざまざと見せつけられ、気分は決してよくない。こんな日はたいてい朝まで、枕元の古い携帯にセットした目覚し時計が鳴る瞬間まで眠気はやって来ない。
そういう星の巡りだと半ば無理矢理納得しなければ到底受け入れられなかっただろう。ホコロビを見つけたその日から優しい目隠しは徐々に外され、現実でやり過ごしてきた日常が顔を覗かせつつある。
「夢も見ないほど眠りたい」
何度も何度も願い続けて叶った夢は、もう覚めてしまった。あんまり情けなくなって、やることもなく天井を眺めていても、ここに来るものはない。
「鞠音」
「うん」
ノックの代わりに訪う声のほかには。部屋の扉を隔てた向こうから、入るぞのひとことだけを投げかけるのがごく当たり前のよう。
「まーた起きてんのか」
「数えてるの?」
「そんなことするか」
一応はゆっくりと扉を閉め、鼓太郎はベッドの側へ一直線に歩いてきた。手探りで橙のナツメ球を点けて間もなく、どこか忌々しそうな表情で部屋中に視線を巡らせながら。
「この家ほんとに何も出ないんだよな?」
「……いないよ、お化けは。どうして」
「そうしょっちゅう目が覚めるのってさ、お前の夢見の悪さだけが原因じゃねぇと思ったんだよな」
「そうかなぁ」
起き上がろうとしたのを止められた頭でぼんやりと記憶をさかのぼる。昨日、一昨日、それから……考えるのも面倒になるほど答えは明白だった。ここ数週間は足元を這い寄る悪夢から目を逸らして、踏みつけにしながらひとりで朝日を拝んでいたのだから。
「ううん、全部悪い夢のせいだよ。この前だって」
「あー、いい、いらねぇ。だからもう思い出すなって」
「うん。あれ? でも鼓太郎も起きてる」
「俺はいいんだよ! お前がうなされてる気がしたから起きちまったんだ!」
「……怖いものが来るのが悪いんだもん」
言外にひとのせいにするなと反論したのが伝わったようで、鼓太郎は無言でそこに座り込むと、枕元からつま先まで十数匹で点々と包囲網を作るぬいぐるみ、そのひとつを鷲掴みにした。お気に入りの、淡いピンク色のうさぎが大きな手で頭を吊られる。
訝しげに三十センチ長のうさぎと見つめ合う鼓太郎は、ふと視線を下ろした。
「こいつらは守ってくれねーのかよ」
横たわったままぼんやり見上げるばかりの反応が気に食わなかったのか、似つかわしくなく露悪的なことをこぼす。ぷらぷらと揺れる丸い脚が奇妙な影を落とした。
「……そんなの、どっちでもいいよ。でもいてくれなきゃ困る。意地悪言わないで」
目を閉じていてもわかる、手を伸ばした先に必ず待っている柔らかい布の手触り。それは誰が何と言おうと間違いなく精神安定剤の役割を果たしてくれていた。手を繋いだまま朝を迎えたことだって何度もある。
「じゃあそんな顔すんな」
「その子を返してくれたら、しない」
「ほらよ」
「む」
なぜかいたずらっぽい笑みで、もこもこの顔をよりによって顔面に押しつけられる。……そこで初めて、涙が滲んでいたことに気づいた。うさぎの頬が濡れてすぐ冷たくなる間に、鼓太郎は背中を向けてベッドに寄りかかった。少しだけ髪の乱れた後頭部しか見えなくなって、それでも距離はぐっと近くなる。
「……こいつらじゃなくて俺にしとけよ」
「朝まで抱っこして寝てもいいの?」
「ちっげーよ寝ぼけてんじゃねー!」
失礼なことを言いつつ慌てて振り返る表情は、すぐに優越感を感じさせる笑顔になる。今はわたしの腕の中に収まるうさぎを指差し、俺じゃないとできないこと、と得意げだ。
「こいつは見た目から何から弱いだろ。で、俺は強い」
「見た目が?」
「何もかもだ!」
固く拳を作って振り回すジャスチャー。そこらにいるかもしれないお化けが数人殴り飛ばされていく勢いだ。
「俺がお前の側にいれば何も近寄らなくなるだろ」
「そうかな」
「そうだよ、だから俺にしとけ」
そろそろ寿命も近いのだろう明かりが、一瞬ちらついた。近所の家電屋さんは改装工事で閉まっていたなと思うと、少し遠くまで足を伸ばす気になる。
目を覚ました後のことを、久しぶりに真正面から見つめた気がした。授業中に居眠りしないかな、ちゃんと楽士たちと戦えるかな……目を閉じて顔も背けたくなる後ろ向きなことばかりを思い描いていた頭には、文字通り火が灯ったような心地だった。
「……鼓太郎にする。鼓太郎がいい」
「やっとその気になったか」
「いっしょにいてよ。十分くらいは寝られる気がする」
「何でだよ一時間単位で考えろって」
「手、握っててくれる?」
沈黙が下りる。あまりにも脈絡のないお願いだ、自分でも納得できる。
「そうしたら、ほっとする。寝不足なんてなくなると思う。赤ちゃんみたいで恥ずかしいんだけど」
「……今さら気にすんな、手がかかんのはずっと前からだろ」
「酷い」
「ほらよ」
軽口の応酬の後、体ごと振り返った鼓太郎はベッドに頬杖をついて(ぬいぐるみは適当に避けた)片手を差し伸べてくれる。その大きな手のひらに、控えめに指を重ねた。すぐに長い指がゆっくりと降りてきて、手の甲を簡単に包み込む。骨格から違う、なんて当たり前のことを唐突に実感した。昨日つないだときより少しだけ冷たい手。
呆れたような、ほんの微かな吐息。視線だけ上げると、長い時間直視するには少しきつい橙を背に逆光になった鼓太郎がいる。いつもなら、声色だけでその表情を判別できる絶対の自信があった。今はそれが揺らぐほど、濃い影が降りている。
言われたとおり。鼓太郎へは今日に限らず散々甘えて、困らせている。いつか本気で怒られても何の不思議もない。それでもこんなことを止めないのは、自分でもどうしようもない弱気を励まして、そばにいて、許してくれるのが嬉しいからだ。
「寝顔は見ないでね」
「さっきから何十個わがまま言うつもりだよ」
「変な顔したら笑うでしょ」
「ゼロ歳児は寝顔見られるのも仕事のうちだろーが」
「嫌なものは嫌」
「うるせえさっさと目ぇ閉じてろ」
それもそうだと、もっと話したくなるのを抑えて強引に瞼を下ろした。視界を塞ぐと、途端に音がはっきりと耳に入ってくるようになるのは五感のバランス感覚なのかどうか。壁の時計の秒針が、いつの間にか早くなっていた鼓動を落ち着かせていく。
触覚の方はというと、いまいちわからない。視線が刺さる、なんていう聞き慣れた現象もどこにも感じなかった。もしかしたら、本当に誰も近づけないように四方を見回してくれているのかもしれない。
わたしのために。
「鼓太郎」
「寝ろっつっただろが!」
「おやすみ……って言おうと思ったのに」
「あー……そっか。おう、おやすみ」
「うん、おやすみ。ずっといてね」
「わかってるって。お前に悪さする奴はぶっ飛ばしてやんよ」
力強い宣言。それがお腹をつつかれるようにくすぐったくて、嬉しくて、唇が笑むのを隠せない。
「……俺が見ててやっからな。だから怖くないだろ、鞠音」
落とした、低い声が遠い。遠くに響いて気持ちいい。意識がとろりと形をなくし始める。
淡い眠りの気配を手繰り寄せて、後はそのまま大人しくしていればいい。気づけば朝になっているし、鼓太郎は変わらずここにいてくれる。多分ベッドに突っ伏して、すやすやと健康そのものの寝息を立てて。
「鼓太郎、いつの間にお化け平気になったの?」
――思わず笑い混じりの声になった、それはほとんどひとりごとだった。だから、返事がないのは当たり前で。
けれど、握られた手が解けていく方の理由はわからなかった。
「……どうして?」
目を閉じたまま訊ねても、答えは返ってこない。体を横に向けたまま、いちばん楽な仰向けになることもできないまま、瞼の向こうの影が揺らぐのを感じるだけ。
手を包んでいた低い体温が、残滓すら残さず消えていく。
指先から頭まで冷えていく悪寒めいたそれは、警戒だった。一気に覚醒する頭は気づいてしまっている。
「……どうしてうちにいるの?」
ひとりきりのはずのこの家に。
ぎしり、と、音を立ててベッドが軋んだ。
「……」
開けたくもない目は、開いていた。
ふたり分の重みを受けて、マットレスが沈むのを見る。
