「問題だ。そこの蛇口からいくらでも採取できる素材は?」
「ヘーベル湖の……」
会話が途切れる上に間違っている。こんなことが始まったのはちょうど一週間前からだ。あのイゾルデ先生が授業中に怪訝な顔を隠せなくなるほどにノルンはうわの空の状態が続いていた。鉛筆とガラス棒を見間違え、アトリエのドアに激突し、さらには昼食を目の前にしてレタス一枚しか口にできない有様。
普段の彼女をそれなりに知っている同級生たちはその変貌ぶりに驚きを通り越して恐れ慄いた。グンナルのアトリエにおける常識人枠がついに壊れてしまったのか……もちろんそんなことはない。
「熱を、測らせてくれ」
そう頼めば無言で前髪を上げる始末。手のひらを押し当てると、常よりも高い体温が伝う。頼みの綱のフィロは採取に出かけて不在だった。椅子にぽつりと腰かけたまま動けないノルンを診察できるのは自分だけ。
とはいえ結論は出ている。
夏バテだ。
***
「というわけで僕たちは考えたんだ」
最近自分がこのアトリエの常識人枠から外されたとはつゆ知らずヴェインが黒板にチョークを走らせた。全員が椅子を寄せて集まるこの場にノルンはいない。見かねたニケが先ほど文字通り担ぎ上げて保健室に放り込んだからだ。小柄な彼女が更に小柄なニケに運搬されるのを止める者は誰もいなかった。それほどの事態で。
「最近は採取先も増えてきたよね。行き帰りの間に、素材としては使えないものの群生地もたくさん見つけて……その中のひとつに湖があったんだ」
記された簡略図の一点に赤いチョークで星が描かれる。辺りを浮いていたパメラの手からぬいぐるみが離れ、ヴェインのそばから黄色のチョークを取って花の絵を足し始めた。
「とっても綺麗な場所なんだよ! この前ヴェインくんと寄ってみたの。今の季節でも少し冷たいくらい。他のアトリエの子たちにはまだ見つかってないんだよ、秘境だね!」
フィロが鞄から取り出した試験管の中は透明な水で満たされている。その向こうには、彼女のひらめきをこれ以上ないほど表す輝く笑顔があった。
「みんなで水遊びしよう! ノルンちゃんも、ここでゆっくり休めば元気になるよ!」
ふたりの提案に挙がった賛成の手は全員分。
***
この学園の中はともかく、その周囲に娯楽になるような施設はない。だからこそ今回の案は魅力的だった。どちらかといえば真面目に勉強するタイプのノルンは課題に向けて根を詰めすぎるきらいがある。この辺りで状況をリセットする方が精神衛生上もいいだろう。何より、楽しそうにする彼女を見ていたい。その上で元気になってくれたなら言うことはなかった。
「嬉しい……それじゃあ、水着を用意しないとですね」
ベッドから起き上がったノルンは幾分かましな顔色をしている。メルヒス先生にもらった栄養剤を飲んだという時間からずいぶん経ち、カーテンを開けた窓の外は夕方の色をしていた。一週間快晴が続くといううってつけの時期、決行はもちろん明日だ。善は急げとのアンナの弁は皆の望むところで。
「ロクシスも来るんでしょう?」
「泳ぎはしないがな。彼らだけに君を任せられない」
「えー、どっちが速く泳げるか競争しましょうよ」
「復活してからものを言うことだ」
ふいと視線をそらそうにも、彼女がくすくすと笑うのがわかってはその意味を失い。柔らかな頬がふわりと優しい色に染まっているのを思わずまじまじと見つめてしまったことに気づかれる様子はなく、それがなぜか寂しかった。
ノルンがいつものようにこちらの視線に気づく瞬間。目が合った途端に嬉しそうに微笑むタイミング。早くどちらも戻ってきてほしい。
「ノルン。明日は迎えに行く」
「いいんですか? ありがとう!」
今日いちばんの笑顔を前に――フィロたちに頼まれたことは黙っておく。本来同じ寮の彼女らが固まって行動すれば済むことをわざわざこちらに回すということは、同時に気も回されているのだろう。余計なことを、と口にはしたが本心ではないことなどすでに見抜かれているに違いない。女子は妙なところで鋭いと思う。
私がノルンに向ける感情のことも、恐らくは。
