ことばは届かなくていい

 寝返りを打つ間に寄ってしまったタオルケットを抱きしめて口元に持っていく。眠る藍さんの、恐らくは限られた人間しか知らない癖だった。

 ぬいぐるみといっしょにくるまれる小さな子のようで可愛い……と面と向かって口にするのは何となくはばかられて、言わずじまい。こうして僕の部屋でうとうとと眠りに落ちてしまうのは安心感のせいだという。それが嬉しかった。

「藍さん、ちゃんとかけておかないと風邪ひくよ」

 ほどよい風が吹き込む中でタオルケットを肩まで上げても、数分後にはくしゃくしゃになって細い両腕の中に丸まってしまう。ころころと寝相の変わるのをどれほど見ていても飽きなかった。手元の頁を数度めくるたびに視線を投げて、ベッドの上の何とも気持ちよさそうな寝顔を認めて。

 雑誌を適当なところに置いてそっと覗き込む。頬にかかる髪を指先で払うと、少し高くなった体温があった。この可愛いひとに、知られないまま触れることに後ろめたい気持ちはもちろんある。けれど、これきり、これだけだからと自分に言い聞かせて結局止めることはしなかった。頻繁に会えるわけではなく、次に会える保証はない。そんな状況を言い訳に。

「あとどれだけ、こうしていられるんだろう」

 どうしようもない弱音が、こぼれた。この時間を守るためにできることは全てするつもりでいるのに。放っておけば数日で夏風邪へ突っ込んでいくだろう藍さんの世話を焼ける、気が気ではない、そして大切な時間。

 きっとこのひとは積極的に生きていたいわけではないのだろう。その自覚もない。それは命を落とす危機に直面している実感がないからだ。自分を取り巻く状況を、言い聞かされて何とか把握しているが見えてはいない。自らが時折呪霊に見つめられていることを、このひとは知らない。

 それでいい。僕が、僕たちが対峙する脅威も恐怖も、藍さんが知る必要はないし見る必要もない。この安眠を脅かすものは全て退けてみせる。自分だけが盲目で、無力でいることをこのひとが悔しがって悲しんだとしても、それだけは譲れない。

「ゆっくり、寝ていてね。僕はそれが嬉しいんだ」

 離そうとした指に、ふと藍さんが頬擦りした。猫を抱く夢でも見ているのだろうか、幸せそうな笑みに似た表情を浮かべて。

「えっ」

 ――どうしよう離れられない。ふわりと、信じられないくらい柔らかい感覚が僕を逃がさない。さっき考えていた暗く先のない決意はどこへ行ったのか。どれだけ一方的な決意を吐いたところで大言壮語、藍さんの一挙一動にはかなわない。このひとには勝てない。

「順平くん」

 密やかで小さな声が呼ぶ。続くことばが何であれ、僕はきっと大切に受け取って胸にしまい込んで一生忘れないだろう。

 窓辺の風鈴が数度鳴った。淡い響きとともに、大好きなひとの声を待つ。