暗い空の下で、花が咲くような明るい色が跳ねる。その正体、にわか雨から逃れるパステルカラーのパンプスに雫が散るのが見えた。小走りになる藍さんは僕を目に留めるなりぱっと笑顔になって屋根の下に滑り込む。
「ぎりぎりだったね……入って、温かい飲みもの入れるよ」
「ありがとうー」
ふわりと和らいだ頬、そこめがけて突風が真横に吹きつけた。一瞬遅れて叩きつけられるのは同じ角度で飛んでくる雨粒で。
「……くしゅん」
――小さくくしゃみをする藍さんの左半身が見事にずぶ濡れになっている。
「……ぁ」
玄関先に持ってきていたタオルが床に落ちる乾いた音が遠い。ついでに数日前に七海さんに指摘されたことを思い起こした。吉野くんは慎重が過ぎてとっさの判断が遅れがちです、ガードが甘くなるのはいただけないのでまずは回避を重点的に覚えましょう――。
ごめんなさい七海さん。藍さんを前にすると判断が鈍るというより思考が止まってしまいます。自分の格好より僕の家の心配をするだろうこのひとがあんまり可愛らしくて、取れる手段の全てで助けたい。そう思うと合理性も優先順位も空回ってぐちゃぐちゃになる。
「……ごめん順平くん、おうちに入る前なのに……」
見開かれる目がしょげて伏せられるのを食い止めたいと真っ先に考えてしまうから。
「藍さん! 入って!」
「あっはい!」
薄い肩を掴んで玄関に引っ張り込んだ。いつの間にかそばに来ていた澱月が奇妙な形にずぶ濡れた来客の周りをふわふわ浮いて観察するのも構わず。
「両腕上げて!」
「うん……?」
何やらぽかんとしながら万歳する藍さんからライトベージュのスプリングコートを一気に剥いだ。澱月が頭に新しいフェイスタオルを乗せて帰ってくるのはこの間わずか数秒のこと。話のわかる式神だ、きっと藍さんも後で褒めてくれる。
「こっち、どうぞ!」
「どうも!」
受け取ったタオルを押しつけながら藍さんの手を引いて脱衣所に放り込む。閉じた扉は勢いあまってものすごい音を立てた。レールから外れていないのが奇跡的に感じるほど。
藍さんがそれに驚く気配はない。浴室の擦りガラスの前でぽつねんと立ち尽くす様子が手に取るようにわかった。次、次はどうしてあげたら?
「パネルの赤いのが電源、後はどこかしら捻ったらお湯が出るから!」
扉の奥へ声を張り上げた。はぁい、とお腹に力の入っていない返事を聞いて――自分の呼吸がなぜかものすごく乱れていることに気づいた。全力疾走の直後よろしく鼓動が痛いほど体中に響いて仕方ない。
扉を背に床へ座り込み、肺にぎゅうぎゅうに詰まっていた息をゆっくり吐き出した。
「……情けないなぁ……」
自嘲が口を突く。今の何が、そんなに慌てることだったのか。お風呂に案内するそれだけのこと、きっと他の生徒たちは造作もなくやってのけるだろう。ありとあらゆる面で経験もなければ余裕もない自分が歯がゆい。よくよく考えれば一連の藍さんの行動は僕の圧に引きずられるままだったのではないか? あの可愛い真ん丸の目はそういうことで――。
「えっと、順平くん」
思いの外はっきりと、背後から藍さんの声が届いた。
「ありがとう」
そのひとことが、たった数文字が僕の真ん中にぴたりと収まった。鍵をかけたように――はたまた開けたように、ざわざわと落ち着かない胸が凪いでいく。
「……うん。気にしないで」
「はい」
笑みの混じったそれから、ほっと安心した温度を感じる。過程は目も当てられないとはいえ、僕は藍さんを助けられた。そこは断言できると自覚しながらようやく立ち上がった。何度聞いてもくすぐったくて、誇らしいことばだ。とくに、それがこのひとからのものだということは。
「それじゃあ、ちょっとだけお邪魔するね」
――そして腰が抜けた。
僕の右手には水を吸ったコートがある。背中からは微かな衣擦れの音がする。前言撤回、僕は愚かだ。お風呂上がりの藍さんが扉ひとつ隔てた向こうに現れるのは時間の問題、そのとき着せてあげられるものなんて自分のワイシャツかTシャツかジャージくらいのもの。サイズが合わないのは許してもらえるとして僕の服なんか着せていいのだろうか倫理的に。
それはともかく、どう渡す? 今なら脱衣所に入って構わないだろうか? いや構うだろう。入浴中に男が外にいるなんて嫌に決まっている。じゃあどうしたら? タイミングはどうひいき目に見ても今しかない気がする。
やがてシャワーの水音が響いて、そのときやっと察した。僕があんなに慌てたのはこうなることを頭のどこかで直感したからだ。寒がる藍さん、サイズの合わない服に包まる藍さん、濡れた服のボタンを外す藍さん……そのつま先を思い描くだけで重罪も同然の姿に直面してしまうことを悟ったから。
そして愚かな吉野順平はその直感をことごとく後回しにした。
「澱月! 僕を刺してくれ!」
クラゲの目が何ごとかと瞬くのすら、喚く僕を責めているようだった。それでいい。正しい。好きなひとのそんな場面をほんのひとかけらでも想像するなんて絶対によくないことだ。
――よくないことなのに止められないのを、どうすればいいんだろう? 毒針と、藍さんの平手打ち。どちらがより相応しいか考えるためには正座になるべきだ。どんな藍さんも可愛いんだろうなと緩すぎる雑念に囚われながらでも。
ランダム単語ガチャ No.5565「ご愁傷様」
