あんなにも圧のある「は?」を聞くのは初めてだった。電話越しとはいえよりによって順平くんの声でなんて聞きたくなかったのに、なんて悲観はすでに意味はなく、こうして包丁が勢いよく下ろされる豪快な打音を前に椅子から立ち上がることもできない。
「どうして、藍さんは、こんなことを!」
宙を舞った人参の輪切りを器用に捕まえて鍋に放り込んだ指先はそのままコンロに火を入れた。続いてひと口大の鶏肉に取りかかる動きには寸分の隙も無駄もなく、鍋が煮立つのを待つ間に洗いものも済ませてしまう。なんて素早いんだろう。大いに時短の参考になる。
「今日も暑いね、くらくらしちゃう」
「そろそろエアコンの掃除しないとだめだね。ところで藍さん今日の朝ごはんは何食べたの?」
「わかめスープ」
――そんな今朝の通話はわたしの回答を最後に唐突に切られてしまった。思えば順平くんが怒るには十分すぎる要素を含んでいたと今ならわかる。それにしてもさらりと朝食の話題に切り替えたのを見るに前々から怪しまれていたらしい。順平くんは人間観察が的確すぎ……これはお門違いの感想なので胸にしまっておく。
「食欲がないのはわかるけど、やりすぎ。そんなこと続けてたらいつか倒れるに決まってる」
「はい……」
「様子を見に来てよかった。自分の顔色が悪いの、気づいてないでしょ? あ、もしかして気づいててスルーした? ありえない」
「おっしゃる通りです……」
言い返すことが何ひとつない。今年初めて動かしたエアコンの冷気が熱気も頭も冷やしていく。むしろ寒いくらいだけどちょうどよかった。この家に残ったわずかな食材から順平くんが作ってくれたものはお出汁のきいたぽかぽかのにゅうめん。
「藍さんは自分の労り方を忘れてるんだ。おいしいものも優しいことばも僕にたくさんくれるのに」
少しむっとした表情で、順平くんはお盆をわたしの前に置いて一歩も動こうとしないし目を離そうともしない。事情を知らない第三者からしたらわたしは責められているように見えるのだろう。実際その通りだった。
例えわたしが自分の意思で弱ることを選んだとしても順平くんは許してくれない。それが嬉しい。
「あなたが僕にご飯を作ってくれたとき、とても嬉しかったんだよ。温かくて、お肉と野菜たっぷりなものを食べたら元気になるよって教えてくれたのが」
どこかのろのろと同じ食卓についたのを返すことばもなく見つめていると、ふわりといい香りがした。その向こうには、わたしのことを誰よりも見ていてくれる視線。
「……うん、いただきます。本当にありがとう」
順平くんが大切に想ってくれるものをないがしろにして、台無しにまでする寸前だったことにようやく思い至る。自分のことを甘く考える悪癖はそろそろ止めなければいけない。
「はい、どうぞ。僕はあなたが完食するまで見てることにする」
「食べづらいよ……」
「だめ。だめったらだめ。今日はあなたのそばにいないと心配だからね」
比喩でなく穴が開きそうなほど注視されながら、なんとかひと口をいただいた。――野菜の甘みをよく含んだ柔らかいもも肉に、つるりと優しく細麺がついてくる。温かくて、嬉しくて、思わず笑みがこぼれていた。
「おいしい!」
「よかった。たくさん食べて」
やっと現れた笑顔が眩しい。溶けそうに暑い夏の太陽と同じくらいの熱を向けてくれるその輝きが目の前にあるのは、とても幸せなこと。
