オーバードーズ

 小首を傾げる仕草に揺れる髪は柔らかく肩に流れる。その瞬間にも感じたから決して気のせいではなかった。香水はおろか花の名前にも疎い身では詳しく表現するすべを持たない、甘くて涼しげな香りは間違いなく藍さんのものだった。気づかず黙っていたのを不思議がる視線に答える代わりに口にしたのは混ぜ返すような問い。

「藍さん、とてもいい香りがする」
「ありがとう。多分シャンプーだよ、サンプルなの」
「その……とても、似合ってる。すごく好きだよ」
「嬉しい! わたしも気に入ってるんだ」

 テーブルの向かいに腰かけようとしながらまたしても笑顔が咲いた。藍さんが笑うときには、いつも花が開くようなおっとりとした暖かさがある。見ているとほっとして、胸が綿のようにふわふわとしたもので満たされて、ときには苦しくなるほど。

 それにこの香りが加わると抽象的だったイメージが一気に形を持った。満開の桜に歩み寄る朝のようで、艶のある瑞々しい色は白に近い。朝露を含んで隠しているかのような潤いがあって。

 指先だけでは足りない。そう、唐突に思った。

「ねぇ、藍さん。触れても、いいかな……」
「順平くん?」

 気づけばそちらの席に近づいて、藍さんをすぐそばで見下ろしていた。両腕を伸ばせば抱き締められるところ。きょとんと目を見開いてことばを探しあぐねているのは、もう僕の思惑を見抜いているのかもしれなかった。

「キス、したい」

 どこでどんなストーリーをなぞっても、誰かが誰かに口づけようとする想いを本当の意味で理解することはできなかった。別れ際に、恋が実った瞬間に、なぜそんなことをするのか。それが今ならわかる。衝動だ。

 指先でも手のひらでも腕の中でも足りないほど求める気持ちが、キスという非日常に踏み込ませるに違いなかった。綺麗で可愛くて愛しいひとを、少しでも多く長く感じたい。

 僕の場合は、光あふれるこんな朝に藍さんの香りに触れたのが引き金だった。衝動の証拠に拒まれたときのことを何も考えていない。一日の始まりに、これまで一度もしたことのないものを性急に求めるなんて。

 ――丸い目が瞬いて、そこで限界だった。

「……藍さん」

 ひりつきそうな無音がうるさくて思わず声を上げてしまったのを制するのは、ゆったりと伏せられたまつ毛。してほしい、蚊の鳴くような声を耳が拾ったのだと遅れて気づくのと同じくして、ほんの小さな一歩で藍さんは僕との距離を詰めた。元々ないに等しかったそれはさらにゼロに近づく。

 心臓が忙しなく脈打っていることにようやく神経が向いた。低いところにある薄い両肩に手を置くことすら申し訳なくなるほど震えて、頭を起点に一気に熱が全身を伝う。怯えるように、ほんの微かにぴくりと跳ねる体を見てしまうと余計に。

「藍さん、怖い……?」
「ううん。少し、緊張しちゃうだけ……」
「……僕といっしょだ」

 だんだん力が入ってしまう目元が可愛らしくて、視線をそらせなくなりそうだ。白い瞼の下には今は隠された綺麗な瞳がある。目を閉じたどこかあどけない表情は、しかし眠るときの安らかさからはかけ離れて。それでも僕と同じくらい硬くなっているのが、なぜだか背伸びしてしまう爪先が、その全てが可愛くて仕方なかった。

 その真ん中で朝露を含むように潤い、優しい曲線を描く唇。

 そこへそうっと、唇で触れた。

 温かくて、綺麗だと。それだけを感じる。音も時間もなく互いを確かめる行為は、彼女がほんの小さく僕の袖を摘むことでもっと距離を縮めた。抱き返すほどの大きな動作すら躊躇うほど――または思い浮かばなくなるほど僕のことで頭がいっぱいなのだとわかる。その事実がさらに熱を酷く煽った。これ以上に進みたい。踏み込みたくて、覗き込みたい。きっとその先にはまだ見たことのない藍さんがいるから。

 ――その全てを、数秒かけて飲み下した。暴走のままに進んでいい領域ではないと、普通ではない状態の僕でもわかっている。

 ゆっくり体を離すと、そろそろと目を開くのが見える。がちがちに硬直するあまりに爪先立ちになっていた脚がすとんと床に降り、ようやく視線が合った。

「……どきどきした。順平くん背が高くて、温かくて、いっぱい優しいんだもん……」
「……僕も。あなたが可愛いのはいつも通りなのに、何というか、どうにかなりそうだった」

 未だ実体のない予感の名前は、勝手に喉からあふれ出た。目を閉じることもできずにずっと可愛いこのひとを見つめ続けていた僕には簡単すぎる問題で。

「癖になりそう」

 ――腕の中で丸い目が潤みながら瞬くと、もっとそう思う。

ランダム単語ガチャ No.5527「オーバードーズ」