闇の中

 ついさっき寒気を訴えたはずの目は今やとろりと眠気に飲み込まれ始めていた。その場に座り込もうとするのを支えると、ブラウス越しにも体温が低いのがわかる。

 クローゼットの、そう脈絡のないことばを最後に長いまつ毛は伏せられがちに、とうとうことばは意味を持たない。

「いいよ、藍さん。眠って」

 不満を述べる無言には不安が織り込まれていた。確かにここにいるのは藍さんに招かれたからで。そんな気後れは横へ置いて寝室へ連れる体は怖気がするほど脱力していた。この手を離した瞬間に倒れてしまいそうに。

「大丈夫だよ。ほら、昼は暑かったから。たくさん歩いて疲れたんだ」

 少し隙間の開いていたクローゼットの扉を肩で押して閉め、ゆっくりベッドの上に横たえる。しばし中空を漂った視線はやがてこちらを捉え、ほんの微かに笑んだ気がした。夕方から夜にかけての弱い太陽はその頬を色づけるまでには至らない。

 胸を突くのは罪悪感だった。藍さんは安心してくれている。けれどその目を向けられるべき人間はここにはいない。この手はまだ誰かを助けるには無力なのだと叩き込まれたばかり。

「気にしないで、目を閉じて……」

 瞼を手のひらで覆うより先に、気を失うようにして眠り込むのを見てようやくこちらもほっと肩の力を抜いて床に腰を下ろした。これで藍さんは大丈夫だ。万が一にも何かに気づくことも気づかれることもなくなる。

 ――知るのはひとりだけでいい。クローゼットの内側に取りつけられた鏡に、粘土を適当に固めた形をした真っ赤な呪霊が映っていたことは。それがリビングの窓の向こうから五つの目を見開いて凝視していることは。

 この家に上げてもらった瞬間に感じた違和感の正体。ひとりで片づけられる相手ではないと横目で窺うだけでわかった。例え藍さんに呪いが見えなくとも彼らには関係ない。勘づかれたと判断したら飛びかかってくるだろう。

 いちばん近くにいる七海さんと伊地知さんが到着するまで藍さんを守り通す。真っ先に呪いを祓いに行けないもどかしさを決心で押し殺した。

「大丈夫。大丈夫だよ」

 多すぎる視線から小さな体を少しでも隠したくて覆い被さるように抱きしめる。――またしても、罪悪感。こんなことは、こんな状況ではしたくなかった。周りに何の危険もない、元気な藍さんを前に好きだと伝えながらこうしたかったのに。

「怖くなんてないからね」

 伝わらないことば。まるでこちらが縋っているようでもあるし実際そうなのかもしれなかった。それでもいい。肥大する気配に心を折られないためにはどんな手段も取らなければいけなかった。最悪の場合、確実に盾になるためには。

「僕がいるから」

 抱く腕が震える。藍さんが眠っていてよかったと心の底から思った。

 こんな虚勢を見られたくはない。

ランダム単語ガチャ No.1152「闇の中」