ゴルディアスの結び目

 
 明かりの落とされた部屋に訪う足音がある。軽く小さく、遠慮がちないつもの調子にほっとするのと同じくして、ゆったりとしたリズムでノックを四回。いつからともなく決められた藍さんの合図だった。

 蝶番の軋みすらわずらわしいのは早く声を聞きたいからなのかもしれない。

「……お饅頭みたい」

 第一声が斜め上を行くのがおかしくて、夜闇に溶けそうになった思考でも笑みがこぼれた。ベッドの上に座り込んで頭から毛布を被っている張本人が言えたことではないが、このひともやはりどこか変わっている。それが嬉しい。

「クラゲじゃなくて?」
「硝子さんにこれ預かったからね。順平くんにって」

 正面に回り込んだその手が差し出したのはどこかのお土産らしく包装されたままの紅白饅頭。完全な部外者でないとはいえ外部の人間が生徒の部屋を訪れるのには口実が必要というところか。

「鍵、かかってなかった」
「あなたが来てくれるって知ってたからだよ」

 妙に常識と倫理観を保とうとするこのひとが、憎らしくて可愛い。

 呪いの世界に巻き込まれておいて未だ元通りの自分でいるつもりなのが。

「入る?」
「いいの?」
「……誰にも怒られないよ。僕に何があっても」
「順平くんの友だちと、わたしはとっても怒るけどね。でもそのわたしが入るので何も問題ありません、ということでお邪魔します」
「どうぞ」

 毛布を持ち上げたところに入ってくるのは、決して褒められるものではないこの体格よりも頼りない小柄さ。こうして僕の隣に来た藍さんは満月を眺めた。窓越しに微かに白を滲ませる真円を、黙って。

「暖房、最近はいらなくなったね」
「これからどんどん暖かくなるって。藍さんが風邪引かなくなるから安心だよ」
「そんなにかなぁ」
「僕、先月だけで二回お見舞い行ったよ」
「それはもちろん覚えてる。ありがと」

 ことり、と左に寄りかかってくる重みは柔い。呪いよりも先に人間の悪意を知ってしまった僕たちにとってそれは弱さでしかなかった。殴られたら痛い、当然の道理。僕たちはいつも痛みを刻まれる側の者だった。

 藍さんも同じことを思っているのだろうか。周りで展開するいろいろなことに流されかけた僕とは違い、地獄から自力で抜け出せたこのひとも。

「……時々、僕と藍さんの境界線がわからなくなるんだ」

 手渡された小さな箱は、思い切り爪を立ててようやく包装を剥がせる。勢い余ってしまえば中身にまで至り傷をつけてしまうほどに。彼女は僕より少しだけ大人だからきっとこんな心配はしない。

 この先することもないだろう。

「境界線?」
「そう。僕たちは呪われて、自分自身も呪う側に回りかけた。だからかな、見えなくなるんだよ。滲んでくる」

 シーツに投げ出されていた小さな手をそうっと包むと、温もりより先に滑らかさが伝った。こんなに、僕と藍さんは違う。それなのに。

「僕とあなたで違うんだ。僕はたくさんのひとに助けられてここにいる。あなたはひとりでここにたどり着いた。あなたは僕ではないのにどうしても羨ましいんだ。自分と他人の輪郭って何? どうして僕は、あなたみたいになれないんだろう」

 いつしか視線は月ではなく互いに向けられていた。十人に問えば十人が似た者同士だと答えるだろう、僕たちは弱くて小さい。藍さんを自分と同一視してしまう。だから、憎らしいのだ。僕にできないことがこのひとにはできるから。

「藍さんが好きだよ。それと同じくらい嫉妬もしてる」
「……わたしと順平くんの輪郭はね、そのことばだと思うな」

 返された手が、僕の手を握り返した。藍さんは誰に対してもそうだ。ことばを遮ったり拒絶することを決してしない。

「わたしは、わたしがあまり好きじゃないの。むしろ苦手かも? でも順平くんは好き、好きってたくさん言ってくれるよね。だから、わたしは順平くんを同じだとは思えない」

 元々ない距離をさらに詰めて、藍さんはぴたりとくっついてくる。

「それに順平くんは呪いと戦おうとしてがんばってるんだもん。わたしにそんな勇気ないよ」
「……まだ学長に認めてもらえないけどね」

 心強さと情けなさとがない混ぜになった笑いは藍さんにも伝染した。その声が可愛くてくすぐったくて、閉じた気持ちが揺らぐ。

「嫉妬なんてしたの、あなたに対してが初めてだ」
「でもわたしだって、順平くんが羨ましい。怖いってわかってるものに立ち向かうなんて、わたしはできないよ」
「……僕のは私怨みたいなものだから。僕たちを苦しめたやつらを倒したい、って」

 謙遜するのは、相手が藍さんだから。この期に及んで自分を少しでも綺麗に見せようとする往生際の悪さ、僕も彼女のことを言えたものではない。

「ゴルディアスの結び目が見つかると楽なのに」
「アレクサンドロスみたいに剣を持てるような手があればね。わたしは一生無理かなぁ」

 藍さんが赤い饅頭を差し出そうとするのより先に、白い方を半分に割った。

「どっちもだ。どっちも僕たちで食べようよ」
「……そうだね。ありがとう」

 僕にならう華奢な指は赤い饅頭をバランス悪く割いてしまう。大きい方を分けてもらうと、微かに餡の香りがした。

「……深夜におやつなんて、ちょっと罪悪感」
「誰も怒らないよ。僕が黙ってる」

 半月型をかじる。藍さんがまたここを訪れるのは次の新月のころだ。そのころにはふたりの境界線に影のひとつでも差しているといいのに。

ランダム単語ガチャ No.9834「ゴルディアスの結び目」