サンクチュアリ

 窓辺に置いた小さな鉢植えは両手で持ってもずしりとした重みを感じる。真ん中に咲いている一輪のパンジーは目の覚めるような黄色を朝日に輝かせていた。

「うん。綺麗だね」

 頭に被せたタオルのように澱月が僕の上にふわふわと降りてくる。手が塞がれる僕の代わりに透明な触手の先で薄い花びらをつついて遊んだ。見ているだけで気分が上向くような色で思い起こされるのはここで出会ったひとたちのこと。

 伏黒くんには「徹底的に叩き直さねぇとだめだ」と体術の訓練でこてんぱんにされた。釘崎さんとは明後日、藍さんを加えた三人で池袋に行く約束をした。悠仁くんには「荷物持ちにされるかも」と脅されたけど行き先は水族館だから多分大丈夫、だと思いたい。腕力には自信がないから。

 先輩たちも先生たちも、七海さんも伊地知さんも。みんなが僕を見ている。まだ完璧に呪力を使いこなせない僕に厳しく、そしてときには訓練のペースを飛ばしすぎるなと注意してくれた。

 ほぼ連日へとへとの僕をいちばん心配して、いちばん応援してよくメッセージをくれるのは藍さんだった。僕が返事に込めるのはあなたたちのおかげで毎日がんばれること、あなたたちに報いたいという想い。

 僕はまだ非力だ。みんなのようにできた呪術師になれるかどうかもわからない。それでもみんなや、その大切なひとたちを害する呪いに太刀打ちできるようになりたい。だからもう折れるわけには行かなかった。

 呪い。

 そんなものが生まれなければよかったのに。ここにいる誰もが、ないものねだりとわかりきったことはしない。それでもすでに失われた可能性を想わずにはいられなかった。母さんも、僕も、悠仁くんも藍さんも、みんな呪いのせいで苦しんだ。

 形のある悪意。嘲笑と憎悪とともに振るわれる真っ黒な力。それはときに明らかな人間の形を取った。制服を着た影に追われる夢を何度見たことか。そして夜闇に紛れて現れる異形。その牙が突き立てられる瞬間を僕は見たことがない。それでもその結末は知っている。倒れた母さんと、怯える藍さん。僕が飲み込まれかけた虚無が起こすのは悲しいことばかりだ。その悲しいことは僕に暗い火を灯す。

 全てが許せない。この手で痛めつけて跡形もなく命乞いもろとも満足の行くまで粉々にしてやりたい――。

「順平くん」

 色のない声。感情のないことば。そちらに振り向くこともできずに手の中の花に視線を戻した。いや、元々僕はこれを見ていたはずで、意識だけが後悔と怨恨の方を向いていただけだ。

 パンジーは鮮やかだった面影も残さず灰の塊のように朽ちて乾いていた。茎に食い込む澱月の針がそうっと引き抜かれるのを呆然と眺める。藍さんの声がなかったら今ごろ花は粒子になって土に降り積もっていたかもしれない。あと少しでも毒が流れ込んでいれば。

「……見たの、藍さん」

 視界の隅、この部屋の入口で背の低い気配が微かにたじろいだ。この呼びかけは誤りで悪いのは全て僕の方なのに。扉を開け放っていたのも、午前十時にここへ呼びに来てくれるのを了承したのも僕だ。

「これ、何だと思う」

 渇いてなどいなかった喉がささくれ立つ。

「殺したい」

 藍さんはあっけなく当ててみせた。

 ここにはもう何の命も咲いてはいない。確かに鉢植えの中から消えたのだから。

 僕のせいで。

「……藍さん、お願い」

 見ないでよ、などと言えるはずもなかった。僕にはその資格がない。靴を脱いだ柔らかな足音もかけることばを失った沈黙も拒むことなどできない。藍さんがここからいなくなってしまえば僕は本当にどうにかなってしまう。

 膝をついてそばに座り込む藍さんをやっとの思いで視界に収めた。伏せるまつ毛の影になってその目がどんな色をしているのか読み取ることはできない。それでもいたたまれなくなるのは藍さんが僕を拒絶することもなければ詰ることもありえないと、優しくて都合のいい事実を知ってしまっているからだ。

「パンジー」

 そうして僕を見上げる視線がいつもと何ら変わらないのも。踏み込みたいのを僕のために踏み留まるのも。

「育ててたんだ」
「うん」
「好きなの?」
「……うん」

 眩しそうに細められる目を僕は、裏切っているのだろうか。

 この花は澱月との訓練のためにあったのを藍さんはいつか知る。それとも、はじめからこうして毒で枯らすために種から育てていたのをもうわかっているのかもしれない。

「……本当に、綺麗だと思ったんだよ。信じてくれる?」

 伸ばす手を受け入れてくれる藍さんは、日向にいる。

ランダム単語ガチャ No.7482「サンクチュアリ」