バスの窓に貼りつくようにした一枚目。降車してすぐの二枚目。部屋のベランダからの三枚目。
ふたりの視力の差はともかく、写真は誰にでも平等だった。どれも真っ黒な四角形と化したそれらは、全て藍さんのスマートフォンから送られてきたもの。
「星、見える?」
そんなメッセージとともに。
「カメラの設定をいじらないと難しいかも」
遠回しに結果を伝えると、弱り切ったウサギの顔のスタンプの直後に「今度教えてね」と返ってきた。次に会うのは、星が綺麗に見える快晴の日がいいだろう。
天気予報を見るのがこんなに楽しいのは、久しぶりだった。
***
住宅街に金切り声が響き渡っても、通りに出てくる人間はいなかった。午前二時の暗闇には重ねて帳が降ろされている。人工的に隔離された空間では、こんな季節のこんな時間に交差点でひとり立ち尽くす姿を見咎める者は、どこにも。
風に吹かれる煤のように消えかかる呪霊とその後ろ、すぐそばの電柱番号が同時に写真に収まるようにスマートフォンを向けた。土地勘がないと詳細な報告ができないと補助監督に相談したとき、アドバイスされたことだ。電柱の所在地から交戦地点を割り出せるという。
――何の感慨もない。
なくなったと形容した方が正しいのかもしれない。こうして澱月との連携を交えて実際に呪霊を祓えるようになった日の高揚と、手ごたえは小さくなどなかったのに。これでやっと、あのひとたちを守れる人間に一歩近づけたのだと。
この暗がりのせいかもしれない。それとも、六体続けて処理し続けた疲れのせいか。
処理。何とも軽いことばだ。この状況、冬休みの宿題と比べてどちらが重いだろう、そんなわかりきった自問に即答できないほどには。
――延々と考えている間、最後まで残されていた濁った片目がじいっとこちらを眺めている。苦痛に満ちているのか、恨みがこもっているのか、その視線から読み取ることができない。そもそもまっすぐ見つめようなどとは考えもしない。
怖いから。
思い返してみれば、行動原理のほとんどは恐怖だ。呪いが怖い。悪意が怖い。母が、藍さんが、みんなが傷つくのが――そうして、いなくなることが。
考えるだけで気が塞いでいくのがわかる。余計に思考を深めないうちに、雪が降りださないうちにと、大通りで待機している車を目指して歩を進めた。任務を終えた安心感で足取りが軽くなることもないまま。
寒い。
こうして真夜中にひとりでいるのも、呪いを祓えるのも、自分で選んだ結果だというのに。
「どうしてここにいるんだ」
ふとこぼれた、これは今いなくなった呪いに向けたもののはずだった。その通りだとしたら、自らの思考に小さく驚愕する。こんなところにいる理由を彼らへ求めてしまったかもしれない自分へ。しかしあんなものがなければ、出会わなければこうしてはいないという事実もまた胸の裏に巣食っていく。
「……どうしてここにいるんだろう」
歩きながら見下ろすスマートフォンの中に、ここ数時間で撮影した写真が溜まっている。四角に切り取られて並ぶ夜闇がそのまま、腹の底に積もっていくかのようだった。早く送信して削除してしまいたい。そんなことをしてもこの身に詰め込まれたものはなくならないけれど。
データを遡っても、遡っても、薄ぼんやりとした景色の写真ばかり。暗くて、冷たくて――とうとう何の輪郭もなく黒く塗りつぶされた画像が顔を覗かせる。
膝から、力が抜けそうになった。
「……藍さん……」
一歩、何とか踏みとどまる。しかし折れる体は止められなかった。画面を腹に抱えて、ここにはいないひとの名を掠れた喉で呼ぶことしかできず。
「……どうして、僕はここに……」
うつむき映り込んだ自分の顔は限りなく無表情に近い。
そう、思い込んでいた。
頬のあたりを、ほの白く照らすものがある。情けなく歪んだ表情を容赦なく晒す、柔らかな光。
真横を見上げる。ショーウィンドウ越しに、淡い桜色の胡蝶蘭が点々と並んでいた。店内の照明もない中、まるで灯火のようにささやかに、けれど確かに。
「……綺麗だね」
いつか大好きな声で聞いたことばを、繰り返す。隣で過ごしてきた日々の中のほんの些細な、同時にとても得難いひとことを。
この光景に似たものを、そう遠くない過去に見たことがある。そして、この写真に何も写っていない理由を知っている。
手元に視線を戻し、ひとつずつ遡った。曲がった背をしゃんと伸ばしながら。
部屋のベランダからの三枚目。降車してすぐの二枚目。バスの窓に貼りつくようにした一枚目。この闇は、あのひとが星を探して写した夜空の色だ。弱りきったウサギの顔になる前は多分、目を輝かせながら空を見上げて。
そこから先は一面の紅葉、その中で共に収まる笑顔の僕と藍さん、伊地知さんとふたりで大荷物を運ぶ様子、これは狗巻くんが撮って送ってくれた。そして自販機の前で悩む一年の三人、ペンギンのぬいぐるみを抱える藍さん、空のグラスとクリームがついたスプーン、ふたつ寄り添うラテアート……ここにだけ幻灯機があるかのようだった。今までのことが嘘のように、色が、声が溢れている。
大きく呼吸をした。腹から喉までを埋めていた澱を、まっさらにして。白い息が溶けてなくなるのを眺め。
これだって、僕が選んだ結果だ。誰にともなく、そう言い切れるように。
「大丈夫。僕は君がいてよかった」
どこかにいる澱月へそう声をかけた。起きたことをなかったことにはできないし、したくもないのだと。花屋のすぐそばから始まる上り坂へ踏み込んだ足は、軽い気がした。帳を抜けたら、ここから星空がよく見えるかもしれない。
そうして意識を遠くへ投げ出していたから、スマートフォンが微かに通知ランプを点滅させていたことにしばらく気づかなかった。消音モードだった機器に入っていたのは一件の着信。夜中に緊急以外 の音を落としていると知っているのは、ごく限られている。
「……藍さん」
折り返した電話口を、彼女は怪しまないだろうか。
「起きてたの? 今日は夜ふかしだね、寒いでしょ」
「眠れなくって。もしかして順平くん起きてるかなって、電話しちゃった」
「起きてたよ。ずっと考え込んでた」
任務の直後だと、伝えようとして止めた。ことばを選んで最小限にしないと、安心感で座り込みそうになっていることが見抜かれるかもしれないから。
「……あなたの声が聞けてよかった」
「わたしも。これで熟睡できそう」
柔和な笑みが、瞼の裏に浮かぶ。
いつの間にか、目にぐっと力を込めていた。誰にも見られることはないのに。
「……明日、いや、お昼から会えるかな」
「うん、会いたい! どこに出かけようか」
「そうだね、迎えに行くよ……」
上り坂が終わり、合流地点が近づく。高専へ、そして藍さんがいる場所へ帰ることができる。
「まず、カメラをいっしょに見てみようか」
それまでに、濡れた頬は拭えるだろう。
夢小説企画サイト「花鳥風月」様へ寄稿。
