ふたりふたつのおまじない

 

 古い映画のフィルムを見たことがある。大きなセロハンテープみたいなものを何度も巻き戻して使うのだと、テレビ番組のドキュメンタリーで説明していた。一度映写機を回し始めたら止めてはいけないということも。

 大好きな声も光景も、虚構の上ならまた通り抜けることができる。

 ここにいるわたしたちは?

 ***

 あの映画について検索して最初に出てきたのは難しそうな英語だった。フォーゲット・ミー・ノット。タイトルになった花が意味する花ことばだという。

 ずっと昔の映画の再上映だと、わたしも順平くんも楽しみにしていた。けれどそれはそれとして、ストーリーの根底を理解できたかといえば自信はない。劇場を出て正面ゲートまでのエスカレーターを降りきっても。

 男女が出会うのも、それまでの恋人を捨てるのも、再会するのも愛のため。全ては愛のせいだと。

「難しかったねー」
「うん。あれくらいの歳になれたら僕にもわかるようになるかな」

 賑わうチケット売場を眺めながらつぶやく横顔を、ただ見ていた。

 その順平くんはここにはいない。フード売場のバックヤードに、小さな呪霊に追い回されているスタッフを見かけたといって追っていったからだ。

 あれくらいの大きさなら平気だと、笑って言い切ってくれたのを信じて南口近くの公園で待つことにした。夕方だから、買いもの帰りの家族連れがそこそこの数すれ違っていく。

 その中に、小さな両手に大きな大根を抱えて歩く幼稚園児くらいの女の子がいた。隣のお母さんが笑って見つめる前で、お手伝いできて誇らしそうにしている。

 大根。サンマは旬ではないから揚げだし豆腐がいいかもしれない。大根おろしを上に乗せて、だし醤油をかけるとおいしい。明日の夕飯の候補がひとつ増えた。大根がみるみるなくなっていくのを眺めるのもだいごみだったり。そういえば、先ほど通りがかった食料品売場で珍しくバターの特売をしていた。今度、順平くん用にクッキーを作ってみたい。そこそこ日持ちがするから、気が向いたときに食べてもらえたら嬉しい。

 ――などなど、楽しい映画の後に楽しい想像をしているはずの胸の内は、もやもやと形のない黒い不安が覆いつつあった。きっかけすら定かではないものが。

 とはいえ、それは背後から明るい声に呼ばれてどこかへ行ってしまう。順平くんが元気に帰ってきたのだから当然だ。

「藍さんお待たせ! もう終わったよ」
「お疲れさま! 何ともなくてよかっ」

 振り向いた瞬間、その笑顔が――正確には左の頬が文字通りに赤いことに気がついた。

 暑さ寒さでそうなったのではなくて、どう見ても盛大な擦り傷。一応はハンカチか何かで拭われてはいるものの、固まりかけた血がここからでもわかる。こちらへ振られる手のひらも同様で。

 呑んだ息が喉に滞る。鼓動が騒いで痛くなる。今日の夕飯は食べられないかもしれない。

「だ……大根おろし……」

 順平くんは「え、大根?」と困惑しながら痛がる様子もない。

 その光景を目の当たりにしてようやく、先ほどのもやもやが何なのかわかった気がした。明日の夕飯も甘いクッキーも、それに気づかないようにするための無意識のフィルターでしかない。

 わたしは悲しくなっていたのだ。

 あんなことを言い残していった順平くんに。

「なれるよ」

 その瞬間、前置きも何もない衝動が口をついていた。大声のつもりだったけれどまるでお腹に力が入らない。

 驚く丸い目に見つめられても、止められなかった。

「順平くんは大人になれるよ! あの俳優さんみたいに薔薇が似合うようになるし、あと二十センチは背が伸びるし、もっと、もっと」

 藍さん、と、静かな声に呼ばれた気がする。

 確かめられないのは顔を上げていられなくなったから。

「そうじゃなきゃ」

 続くことばが見当たらない。胸倉を掴んでやりたいほどの焦りが急激にしぼんでいく。ここで詰め寄るのは間違いだ。

 あのことばが順平くんの諦念から来たものだと思い込むのは。

 しばらくの無言の後――どこかで、消え入りそうなため息がくぐもった。それは取り返しのつかない失敗に気づいたときに思わずそうしてしまう、青白い色。

「……藍さん」

 綿を扱うような手がわたしの両肩に降りた。

「泣かないで。大丈夫だよ」

 その頬に流れるのが赤い血だけだとしても、わかる。

 視線の先で、順平くんは泣きながら笑っていた。

「大丈夫」

 ***

「誤解させてごめん」

 すぐにベンチへ戻ってきた順平くんは、温かいペットボトルをくれた。

「僕には、好きなひととあんなにあっさり別れる気持ちが全然わからなかったから……」
「わたしもごめんね。いきなりあんなこと言い出して」
「そんな。僕は嬉しかったよ、藍さんは僕のために怒ってくれたんだ」

 少し硬い蓋を回すと、緑茶の苦くていい香りがしてほっとする。ようやく落ち着いたと自覚できるころ、日はすでに沈みかけて。

「わたしにも呪いが見えたらいいのにな」

 今回のことは、わたしが順平くんと全く違うものを見ていたから起こった。いっそ成分も視力も同じ目を持っていたいくらいだ。

「順平くんがどんなものと戦ってるのかわかるのに」
「見えないなら見えないほうがいいんだよ」
「そうかな」
「あなたが隣にいて、同じ方を向いてくれてるのが嬉しいんだ。僕には見えないものがあなたには見えるから」

 深いオレンジになる太陽から隣へ目を向けると、ちょうど視線がかち合う。ついさっき痛々しい怪我を覆ったガーゼは白くて、夜の色が濃くなる中に浮かび上がっていく。

 わたしの手のひらに収まるサイズの四角形。手当てしてあげられる大きさ。ずっと、そうならいいのに。もっと言うなら、二度とこんな機会がなければ。無責任に願ってしまうのは、わたしたちが徹底的に違っているから。

「また帰ってきてね」

 ひと口の水を飲み込むほどの間の後、順平くんはゆっくりと頷く。真摯な答えは逆にわたしの舌を刺した。その証拠に、望みを吐き出す数秒にさえ痛みが伴い。

「忘れないで。わたしはずっと待ってる」
「うん」

 今度は、ことばも込めて。まっすぐ返してくれる音が、わがまましか詰まっていない胸へ、そこからさらに奥へ届いて苦しい。

 瞼を閉ざしてしまいたい。

「……こういうのも呪いになるのかな」
「おまじないだよ」

 それは断言。

 けれど散る花びらに似た穏やかなものだった。

 冷たくなっていくボトルを持つ両手に、大きな両手が優しく重なる。右はわずかにざらついて硬く、左は柔らかいガーゼの感触。

「藍さんが僕に向ける祈りは全部おまじないだ。僕が決めた」

 順平くんの笑顔は苦くない。わたしとは正反対だった。

 呪いもおまじないも、そのふたつに大した違いがないことはきっとわかっているのだろう。ことばにかけて、順平くんは遥かに詳しくて緻密で繊細だ。自分の気持ちを形容するのがとても上手で、上手すぎて、時折相手に受け取ってもらえないことがあるくらいに。

 わたしは、順平くんが向けてくれるもの全て両腕いっぱいに抱きしめていたい。

「もっと教えて。たくさんわがまま言ってよ。あなたのために帰ってこられるし、あなたのせいで死ねなくなる」
「……わたしが悪い女みたい」

 ふとスクリーンの上の修羅場を思い出して笑ってしまう。薔薇の棘を想わせる女優は赤いピンヒールを履いていた。これも、わたしとは正反対。

「あなたには僕が諦めないいちばんの理由になってもらわなくちゃ。何が何でも」

 面映ゆそうに、順平くんは自分のお茶に取りかかる。離れた手が少しだけ名残惜しくて目で追うと、耳の縁がほんのり染まっていることに気づいた。やっぱり、今の順平くんには薔薇の赤よりも桜の薄紅のほうがよく似合う。

 わたしたちの頭上の枝には、膨らみかけのつぼみが点々と散っていた。朝の空の青にはきっとため息がこぼれるほど柔和に映えるに違いない。

 いつの間にか、呼吸を塞ぐもの全てが綺麗に消え失せていた。

「この季節が過ぎたらまた夏が来るんだね」

 いつしか同じものを見上げていたらしく、その声は中空に溶けていく。

「今日という日は二度とやってこないっていうけど、本当はそんなことないと思うんだ」

 すらりとした腕がつぼみに伸びても、惜しいところで指は届かなかった。いつかまたわたしたちがここに来ることができたなら、違った結果が現れるのかもしれない。

 ――違う。きっと、また来られる。

「あったことをなかったことにはできないけど、あったことを繰り返すことはできるんだ、って」

 ついさっきの映画のことを思い出す。あの再上映は元のフィルムの通りに行われたという。順平くんが言う再上映はそれとは違う。日付も天気も何もかも変わっている。二十どころか三十センチくらい身長が伸びるかもしれない。

 そう思い描けることがどれほど幸せなことか。

「またおいしいものを食べに行って、綺麗なものを見に行って……映画も観に行こう。そのために僕は何度でもあなたの隣に帰ってくるよ」

 その中できっと、眩しそうに目を細めるこの笑顔は変わらない。

「……約束だよ。破ったら号泣するんだから……」
「藍さんは泣かないよ。約束は守る……って、言ってるそばから」

 つぼみの朝露を掬う指先は、今はわたしの目元を拭っていく。わたしのほうが年上なのに、なんて理屈はここで口にしても意味を持たなかった。悲しくても嬉しくても涙は出るんだから仕方ない。

「どうしよう。どうしたら元気になってくれる?」
「……順平くんが完治したら」
「完治……あ、これはその」

 一気に気まずそうに、視線が真横へそらされた。所在なげにガーゼをたどる指はもごもごと何かを言いあぐねるのを体現して。

「走ってたらそこの駐輪場で転んだ……」
「呪霊関係なかったんだ……!」
「あんまりかっこ悪いから黙ってようと思ったんだよ!」

 とんでもない勢いで真っ赤になる表情は、本人が両手で覆って隠してしまう。その拍子にシャツの袖口で揺れるものがあった。糸のほつれそうな丸いボタン。転んだときにダメージが入ってしまったのかもしれない。

「ね、白状させてごめん」

 今度はわたしが順平くんを元気づける番。恨めしそうな目がひょこりと覗いて可愛らしいけれど、そう指摘するのはぐっと我慢。

「袖のとこ。ボタン取れかけてるから直すね……あ」

 鞄からソーイングセットを引っ張り出した途端に、バランスを崩して取り落としてしまう。地面に真っ逆さまになるケースからはみ出ていた糸を、ぎりぎりのところで順平くんが掴んで止めてくれた。

「……藍さん、僕からもわがままいいかな」

 ぷらりと宙ぶらりんになるケースを受け取るのを眺める、半ばぽかんとした目。

 次にわたしを見つめたときには、星が瞬くような期待にきらめいていた。

「これ、この色を使ってほしくて」

 ふたりの間を結んだ糸は、洗いたてのいちごのように深い赤。

 

 夢小説企画サイト「花鳥風月」様へ寄稿。